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ジャワ中部地震被災者支援へのご協力のお願い
 2006年5月27日午前5時54分(現地時間)、マグニチュード6.2の地震がジャワ島中部のジョグジャカルタ市より15km程南の南部海岸近くで発生し、多数の死者(3000人以上)と負傷者が出ています。避難民は20万人に上るとみられ、家屋、病院など建物の被害も深刻であり、今後、中長期的な復興活動が必要になると思われます。
 NINDJAは、これまで現地と培ってきた草の根のネットワークを生かし、屋台、ヤギ、メロン栽培支援をおこなってきました。現在、いただいたカンパの残金を生計自立支援プロジェクトとして活用させていただいている段階です。今後ともご支援いただけると幸いです。

Warung NINDJAからご支援いただけます
投稿者: NINDJA 投稿日時: 2009-5-14 17:18:26 (2876 ヒット)

 ジャワ島中部の人口密集地域を襲った大地震から3年が経とうとしています。NINDJAはこれまで、被災者のみなさんの早期自立的復興を願い、生業支援として、屋台、ヤギ、メロン栽培の支援をおこなってきました。そして09年2月末、支援の現場を訪ねるツアーを開催し、「被災地」と呼ぶのがためらわれるほど復興をとげた現地の様子を確認してくることができました。そのため、09年3月末をもって、これまでの被災者支援を終了することになりましたことを、ここにご報告いたします。

 ジャワ島中部の人口密集地域を襲った大地震から3年が経とうとしています。震災で大切な人を失った人や回復しにくい負傷をこうむった人のことを思うと、まだまだ心が痛みます。同時に、さまざまな困難を乗り越え、復興に向かって、日々汗を流してきた被災者のみなさんに、頭が下がります。
 地震の日から今日まで、NINDJAはジャワ島中部の被災者のみなさんといっしょに歩んできたつもりです。被災者のみなさんの早期自立的復興を願い、被災地における従来からの生業活動を尊重し、被災地の社会経済慣行に根づいたシステムにのっとった生業支援を遂行するよう努力してきました。
 出かせぎ商売先と出身地との両方が地震で大ダメージを受けたアンクリンガン売り(屋台カフェ引き)の人びとは、被災から間もなく供与された屋台や台所用品を、いまも大事に使って、商売をしています。
 クラテン県プランバナン郡とウェディ郡で継続中のヤギ飼育プロジェクトでは、プロジェクト参加者たちがNINDJAの購入した親メスヤギを大切に育て、たくさんの子ヤギ・孫ヤギを産ませて、ヤギ貯金をつくりました。とりわけ、子どもの就学・進級時に、生まれた子ヤギ・孫ヤギがいちばに連れていかれ、現金に姿を代えます。すでに取引きされた子ヤギ・孫ヤギの数を正確に把握することは難しいとはいえ、100匹以上になることは間違いありません。
 そして、被災者支援プロジェクトとしては着手がいちばん遅かったものの、いまでは活動の主力になりつつあるメロン栽培プロジェクトは、クラテン県ウェディ郡で実施しています。NINDJAは、みなさまからのカンパで投資をおこなって、被災地で以前から農業労働者として耕作してきた人びと、あるいは資本金に乏しい小農民たちと共に、伝統的な分益小作システムを下敷きに、メロン畑をつくっています。収穫したメロンを販売することによって、被災農民たちの生計をまかない、来期の栽培への再投資を準備するという形です。
 メロン農民にはみずからの損失を最小化する知恵が経験的に備わっていることを、農業初心者のわたしは日々実感しています。天候や市場動向という大きな力に抗う力は、現在のところ、インドネシアの弱小農民にありません。しかし、汗水垂らして耕した結果が、向こう数カ月の生活の糧になるよう、不眠不休であらゆる対策を講じるのが、弱小農民の人びとです。彼らのプロフェッショナルな仕事ぶりに憧れ、メロンとナガササゲの苗の区別さえおぼつかなかったわたしが裸足で畑に入り、伸びてきたメロンの蔓を竹支柱にくくりつける作業を楽しくおこなっています。収穫日から逆算して、自然条件と市場価格を見計らって、植えつけ日を決める余裕も、やっと出てきました。
 メロン栽培プロジェクトは、NINDJAがみずからプロジェクト運営にたずさわる現地スタッフにたいする人件費を創出していく試みでもあります。ここを成功させてこそ、生業支援という時間と手間を要する活動を、長期的な視野をもって遂行する可能性が生まれてくるはずです。スタッフは、予算を組んで資材を買いつけたり、それに関する帳簿をつけたり、農民たちとメロン栽培状況について話し合ったりするほか、自身が脇芽を摘んだり、実を紐で吊るしたり、被災メロン農民のみなさんと同じ作業に毎日汗を流しています。NINDJAと被災した農民との関係性は、日に日に親密化し、いまでは運命共同体と称すべきものになっています。

 2009年2月末に開催したツアーでは、7人の参加者のみなさんに、屋台、ヤギ、メロンのジャワ島中部被災者支援プロジェクトを見ていただきました。この視察をもって、同プロジェクトに一区切りをつけようと思います。厳密にお伝えするならば、「被災者支援プロジェクト」という名称を「生計自立支援プロジェクト」に改称し、インドネシアの人びととNINDJAとの健全かつ対等な関係性を基盤としながら、いっそう手広く、真剣に、長期的視野で生計支援活動を遂行していく覚悟ができたということです。
 会計報告(別途)のとおり、ジャワ島中部被災者支援プロジェクトには約1500万ルピアの残金がありますが、これを生計自立支援プロジェクトの基金として遣わせていただくことで、この間NINDJAにご寄付くださったみなさんのご理解をいただけますならば、幸いです。生計自立支援プロジェクトに関する会計報告も、引きつづき明朗におこなっていく所存です。
 このプロジェクトの中核としてのメロン栽培プロジェクトは、当面、’戚韻寮験荼上、農民とNINDJAとの相互理解とよき関係性の構築・維持、プロジェクトとしての持続可能性の3つを目指しています。これまでNINDJAのジャワ島中部被災地支援活動にお力添えくださったすべてのみなさんに感謝いたします。今後は、生計自立支援プロジェクトをよろしくご支援ください。

※ 09年3月までの会計報告→ダウンロード

(報告:間瀬朋子)


投稿者: NINDJA 投稿日時: 2008-12-2 10:00:00 (1816 ヒット)

 中部ジャワを襲った地震から3年近くになる09年春、みなさまと一緒に被災地を訪問する旅を企画しました。
 現地の人びとはどのように地震の被害から立ち直り、現在はどのような生活を送っているのか。みなさまからのカンパによりNINDJAが支援したカキリマ(屋台)を巡ってお茶や食事を楽しんだり、被災した村の住民と一緒にヤギの解体・料理をしたり・・・、と地元の人びとから直接話を聞く貴重な機会を用意しています。それ以外にも、バティック工房でのロウつけ体験や川下りなど、中ジャワの文化をたっぷり堪能できる一週間です!

詳細→こちらをご覧ください


投稿者: NINDJA 投稿日時: 2007-6-2 2:19:11 (2586 ヒット)

 2007年3月末、ジョグジャカルタ特別州、中ジャワ州で、NINDJAのジャワ地震被災者支援に携わってくれているギト・ニルボヨさんから、フォト・エッセイが届きました→ダウンロード


投稿者: NINDJA 投稿日時: 2007-2-11 21:59:00 (3019 ヒット)

2007年2月11日までの詳細な会計報告→ダウンロード


投稿者: NINDJA 投稿日時: 2006-6-4 19:26:00 (2110 ヒット)

 NINDJAのメンバーで、スラバヤのオルタ・トレード・インドネシア(ATINA)に勤務している津留歴子が、親会社のオルタ・トレード・ジャパン(ATJ)やATINAとしての支援活動の可能性を調査しに、被災地入りをしました。その報告を送らせていただきます。なおNINDJAは、ATINAもしくはジョグジャカルタ留学中のメンバーである間瀬朋子と協力して、とくにカキリマ(屋台)やジャムゥ(伝統生薬)売りへの支援をできないか、可能性を探っています。詳細が決まり次第、またご報告させていただきます。

■ ジャワ中部地震被害視察報告
 ATINAでは去る5月27日のジャワ中部地震の被害状況、救援活動の様子を実際目でたしかめることを目的に、5月31日、 6月1日の2日にわたり、ジョクジャカルタおよび周辺地域をまわりました。まわったと言っても正味2日の限られた時間、さらに一部交通渋滞の激しい地域もあり、わたしたちが訪れた地域は全体のごくごく一部の限られた地域にすぎません。しかし、わたしたちが訪れた地域の人びとは満足な支援も受けられず、明日は食べていけるかどうかという不安を抱えながらの毎日を送っている人びとでした。
 ATINAでは、工場勤務の女性ババール・エカさんの家が地震の被害を受けたということで、まずはエカさんとともに彼女の実家があるクラテン県バヤット郡ンゲプリガン村を訪れました。彼女の家はほぼ全壊、周辺の家屋も軒並み倒壊していました。外壁は保たれている家も、内部は天井が落ち、壁が崩れめちゃくちゃに壊れている家が多数あります。集落長のデータによると、ンゲプリガン村の被害は、死者1名(生後6カ月の赤ん坊)、重傷50人、全壊家屋351、軽度損壊家屋250ということでした。この村には、10世帯あたり1つのテントがインドネシア赤十字から配給されていました。しかし、このテントの大きさは子ども10人を収容するキャパシティしかありません。食糧配給は郡事務所から地震後1回あったということですが、その量は村人全員が満足に食べられる量ではなかったと言っていました。ここの村の男性はほとんど出稼ぎ労働者で、ジョクジャカルタ市内、セマラン、スラバヤ、ジャカルタといった地域に分散しており、今回の地震で村に戻っている男性もいました。エカさんのお父さんも普段は出稼ぎで自宅には母親と妹、祖父が暮らしています。村の女性の多くはバティックの手染めで生計を立てています。
 死者の数がもっとも多かったバントゥル県を貫く幹線道路沿いは多くのポスコ(救援事務所)があり、援助の車や見学者(?)の車でひどい交通渋滞でした。ここに入り込んだため、この地域からの脱出が難しく、結局4時間以上、交通渋滞にはまってしまいました。しかし、バントゥル県でも幹線道路からはずれた地域の村々では援助が十分に行き届いてない地域もまだかなりあるという印象です。
 わたしたちが訪れたバングン・タパン郡テガル・プリヤン村、ジャンビタン村には外からの援助がほとんど入っていない様子でした。村人は倒壊した家の脇にコメの袋やありあわせのプラスチックをつなぎ合わせた自前のテントをつくり、そこで寝起きしています。幹線道路沿いの広場には、国軍や政党が設置した立派な避難民テントがあります。そこは日中訪れたのですが、ガランとしてほとんど利用されていないという状況でした。
 これには理由があります。住民が自分の家から離れたくないという思いが強くあるからです。地震で壊れたものもたくさんありますが、まだつかえるものもあり、それらを守るため、倒壊した家の脇でテント生活をしているのです。夜は物取りが外から侵入するのを恐れ、男性が交代で寝ずの番をしているそうです。
 現地で支援活動をしている団体を2つ訪れました、リベラル・イスラームと言われるLKIS(イスラーム社会研究機関)とキリスト教系大学ドゥタ・ワチャナ・クリスチャン大学です。LKISは援助の届きにくい地域を中心に10カ所のポスコを設置し、そこから援助物資を配給しているそうです。学生のボランティアが集まり、このなかには日本人留学生もいるそうです。また、ここは被災地の状況を毎日ホームページにアップしています。
 UKDSは学長みずからが指揮をとって、教員・学生が一丸となって支援活動をおこなっているという印象を受けました。教会や海外の教育機関から寄付が寄せられ、テント、食糧をはじめ日常必需品を10台の車を利用して配布しています。配給物資は配布地域ごとにきちんと整理されていました。また、多くの学生ボランティアが各地をまわり、物資の配給状況のモニタリングをしているそうです。
 全体的に言えることは、多くの援助団体、グループが寄付を募り、物資の配給をしていますが、それでも援助が十分に行き届いていない地域がまだたくさんあるということです。
 また被災状況がひどい地域は一様に経済的貧困地域で、多くの住民は日雇い農業労働者か出稼ぎ、カキリマといった職業です。家の再建は、地域住民総出のゴトン・ロヨン(相互扶助)でおこなうことになるだろうと、わたしが話した村の住民は語っていました。家の再建期間、現金収入が途絶えてしまうことが彼らの悩みの種です。政府は1軒あたり3000万ルピア補助すると言っているそうですが、政府に対する住民の期待は相当低いです。被災者の声を要約すると、とりあえずは食糧・生活必需品の援助がほしいが、将来的には建設資材・道具の支援があればうれしいということです。
 日本からの寄付金の規模によっては学校、宗教施設などの公共施設の再建支援もしてはという声もあります。

(報告:津留歴子)