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インドネシア人権基金へのご協力のお願い
 98年5月のスハルト退陣から十数年がたちました。インドネシアは、改革・民主化の道を歩みはじめたものの、まだまだ多くの課題が残っています。「インドネシア人権基金」は、軍事作戦の被害者や、開発によって生活の基盤を奪われた住民、攻撃されるマイノリティなど、さまざまなかたちで人権を侵害されている人びとに対し、緊急の支援をおこなうものです。
 みなさまからいただいたカンパは責任をもって管理し、インドネシアのNGOなどと協議のうえ、必要なときに届けさせていただきます。ぜひご支援をお寄せください。

Warung NINDJAからご支援いただけます
投稿者: NINDJA 投稿日時: 2010-8-16 19:45:37 (2672 ヒット)

 2010年8月15日、ピディ県バテェ郡を訪問し、みなさまからいただき、プールしているインドネシア人権基金から50万ルピア(5000円)を、ニャッ・プテさんにカンパさせていただきました。

 アチェが軍事作戦地域(DOM)に指定されていた1990年、国軍兵士が住民を隣村に集め、演説をしたことがありました。目の見えないニャッ・プテさんは、自分の村にとどまっていました。そこへ国軍兵士が来て、ニャッ・プテさんをレイプしたそうです。
 ニャッ・プテさんは自身が汚れた存在になったと感じ、村を離れ、サバン(ウェ島)に住む叔母のもとへ身を寄せました。1998年のスハルトの退陣、DOMの解除後、村に戻ってきて、いまはゴザ編みをして生計を立てています。大きなゴザだと1カ月に1枚しかつくれません。12万ルピア(約1200円)で売って、材料費を引くと、手元に残るのは7万ルピア(約700円)。
 紛争被害者へのアチェ再統合庁(BRA)からの支援1000万ルピア(約10万円)は、家(トタン屋根と板、セメント床の簡素なもの)を建てたり、日々の食費を払ったりして消えました。
 50歳ぐらいのニャッ・プテさんは、生後1カ月で母親を亡くし、祖母に育てられました。6カ月ごろ、目の病気を患ったとき、祖母は村に伝わる伝統的な薬で治療しました。この治療のせいか、ニャッ・プテさんは少しずつ目が見えなくなっていきました。いまも光は感じることができるというニャッ・プテさんですが、「目が見えるようにならなくていい。世界を見たくない」と話しています。

(報告:佐伯奈津子)


投稿者: NINDJA 投稿日時: 2010-7-28 23:48:34 (2218 ヒット)

 7月26日、病気で入院中のパプア政治囚に会い、プールしてあるインドネシア人権基金から100万ルピア(1万円)をカンパさせていただきました。以下ご報告させていただきます。

■ パプア問題について
 パプアは国連暫定統治後、インドネシアに権限が譲渡され、そのもとで帰属を問う住民投票が実施されたという経緯をもつ。住民投票に参加した議員は、事前に一カ所に集められ、外出禁止、インドネシア国軍の「教育」を受けたという。カネを渡され、売春宿に連れて行かれ、インドネシアを選択しなければ妻子を殺害すると脅され、独立を要求すれば口を裂くと脅され、そういう状況で実施された住民投票は、秘密投票の原則も守られなかった。一列に並ばされ、独立したい人は前に出ろ、手を挙げろと命令されたのだった。皮肉にも「自由選択行為」と名付けられた、この不自由な住民投票は69年。以来、パプアでは独立運動がつづいている。
 住民の独立への思いを強めているのは、差別と人権侵害。髪が縮れ、肌の色が黒く…といった身体的特徴、自然に依拠した暮らしなどから、パプアの人びとは原始的と考えられている。
 スハルト時代、アチェ、東ティモール、パプアの3地域は「軍事作戦地域(DOM)」に指定され、大規模な軍事作戦とそれにともなう人権侵害が発生した。スハルト後のワヒド政権下で、「パプア国旗」であるモーニング・スター旗の掲揚が認められたが、メガワティ政権下で再び禁止されるようになる。

■ 政治囚フィリップ・カルマさん
 会った政治囚フィリップさんは、パプア独立記念日(12月1日)式典時に逮捕された。事前に警察への届けも出していた。しかし当日、旗揚げをめぐり治安部隊と住民が衝突する。別の政治囚(Aさん)は、このとき治安部隊が発砲した弾が、演説時につかっていたメガフォンに命中したという。メガフォンがなければ、この政治囚の胸に中っていただろう。
 フィリップさんは逮捕され、警察に連行されるとき、トラックの荷台でうつ伏せにされ、その背中の上に警察官が乗っていた。裁判プロセスは公正なものとはいえず、Aさんが退席しようとしたら、判事が警察に向かって発砲を命じたこともあったほどだった。地裁で禁固15年、高裁への控訴、最高裁への上告ともに棄却された。「刑務所は動物園よりひどい状態」で、刑事犯と同室、トイレは穴だけでひどく臭う。
 フィリップさんは、2020年にはパプア人が消滅するのではないかと懸念している。アメリカのネイティブ・アメリカン、オーストラリアのアボリジニ同様、パプア人に対するさまざまな種類のジェノサイドが存在するという。パプアは、インドネシア最悪のHIV感染率だが、その対策資金も元役人がつくった御用NGOで消えてしまう。
「政府はパプアの鉱山、海洋・森林資源をみるだけ。パプアに住む人びとのことは見えていない」
「パプア人を人間と思っていない」
「パプア人の役人も、幼いときからの恐怖が強く、パプア人を助けられない。ジャカルタの決定に従うだけ」
このように語るフィリップさんは、国連がパプアに「債務」を抱えていると考え、国際法による解決を希望している。

(報告:佐伯奈津子)


投稿者: NINDJA 投稿日時: 2010-3-5 19:26:56 (3179 ヒット)

 2001年1月、アチェから来日したラシダを覚えていらっしゃるでしょうか。1998年3月に特殊部隊に誘拐され、5カ月間監禁、レイプされた経験を、東京で語ってくれた女性です。ともに来日し、アチェの人権侵害について訴えてくれたアチェ人権NGO連合のマイムル・フィダル代表(当時)は、2004年12月のスマトラ沖地震・津波で死亡、以来ラシダとの連絡をとれなくなっていました。
 2009年12月になって、ようやくラシダの連絡先がわかり、3月4日に9年ぶりの再会を果たすことができました。故マイムル・フィダルが「完璧な被害者」と名付けたほど、さまざまな人権侵害を体験したラシダですが、アチェ再統合庁(BRA)の紛争被害者支援の申請をしても、まったく援助を受けられずに暮らしていました。みなさまからいただき、プールしているインドネシア人権基金から100万ルピア(1万円)を、ラシダの資本(ヤギやアヒルを飼うなど)としてカンパさせていただきましたので、ここに報告させていただきます。

■ ラシダへのインタビュー(2001年1月11〜15日、東京にて)
 1998年、もし間違っていなければ3月の、ある晩12時ごろ、わたしとお母さんとお姉さん、弟が、ルモ・グドン(特殊部隊キャンプになり、拷問・処刑がおこなわれた民家)に連れて行かれたの。自由アチェ運動(GAM)に食糧を援助しているとか、武器を保管しているとか、GAMと結婚したなどと言われて。でも、わたしたちは、そんなこと知らなかった。
 お母さんがレイプされ、その後わたしが、お母さんの前でレイプされたの。彼らに「GAMと結婚しているんだろう」「おまえは処女ではないんだろう」と言われました。「いいえ、誓って違います」と言ったのだけど、「うそつき」と言われた。頭を木で殴られ、性器と乳首に電気ショックをかけられたの。それでも、わたしは気絶しなくて、左の乳首を切り取られたのよ。それで気を失って、レイプされた。気づいたら、お母さんが「ラシダ、いまレイプされたのよ」と言ったの。
 お姉さんもレイプされたの。お姉さんは7カ月の赤ん坊と一緒に連れられてね。赤ん坊は両足を軍につかまれ、頭を下にして何度も振られたの。その赤ん坊の前で、お姉さんはレイプされたの。お姉さんと弟は、2日後に帰されたんだけど、お母さんとわたしは、まだルモ・グドンに残されました。
 ルモ・グドンにいるあいだ、わたしは毎日拷問され、一晩一人ずつ、6人の男にレイプされたの。食事をとると殺すと脅されて、5日に1度くらいしか食べられなかった。村に戻ったときは、すごくやせていて、いまでもあまりご飯を食べられないわ。毎日、彼らの洋服を洗ったり、食事をつくったりさせられたの。イヤだったけど、断れなかった。インドネシア語がわからなくて、彼らの命令を理解できないと、拷問されたし。アチェ人のチュアック(国軍への情報提供者)が通訳をしたの。
 20日後、お母さんが連れ出されたのだけど、いまでもどこにいるかわからない。いまも、ルモ・グドンの話をすると、お母さんのことを思いだして、頭が痛くなる。たくさんの人の前で話すと、頭が痛くなるの。いまでも彼らの名前も顔も覚えている。彼らに会ったら、お母さんをどこに埋めたのか聞きたい。
 5カ月間、ルモ・グドンに閉じこめられたの。毎日、拷問されている人を見たわ。死ぬまで木で殴られる人もいたし、おばあさんが、膣に木やバナナ、瓶を突っ込まれるのも見た。わたしは、たくさんいる犠牲者の一人でしかないのよ。
 92年、お父さんはGAMと疑われて殺さてしまった。家の前で撃たれ、その後、軍に連れて行かれたの。朝4時ごろ、戻ってきた遺体は、頭の皮がはがされ、目も歯もなくなっていたの。父はGAMではなかったのよ。ただの百姓だったのよ。でもGAM司令官の名前とお父さんの名前が一緒だったから…。お父さんが殺される2年前には、家が燃やされたの。本当に、苦しいことばかりだった。
 ウィラント(当時の国軍司令官)がDOM解除を発表して、国家人権委員会が調査に来て、やっと解放されたの。そのあとNGOの人たちが、バンダ・アチェに連れて行ってくれて、治療を受けました。一度、彼らがやってきて、わたしにチュアックになるよう言いに来たんだって。でも、わたしは出かけていたの。そのあとは、もう来なかったけど。
 いまは弟と妹4人とおばあちゃんと抱えて暮らしているの。まだ弟も妹も小さいし、学校にやらなくてはならないのでたいへん。田んぼで賃労働をして、田植えをしたり、草むしりをしたりしているの。半日働いて8000ルピア。まだ男の人が怖くて、結婚したいと思わない。
 アチェは独立しなければ、同じことがずっと起きてしまう。わたしたちの目的は独立だけ。

■ その後のラシダ
 2003年、軍事戒厳令が布かれた際、特殊部隊に再度誘拐され、シグリの海岸沿いのキャンプに連行され、「外国に国を売った」と非難された。ピディ県シグリのNGOの支援で保護され、北スマトラ州メダンに避難するが、シグリの自宅が焼かれたことから、メダンにいることに耐えられず、東アチェ県ランサに住む姉のところに身を寄せた。ランサのバス・ターミナルに夜到着、姉の家までの道がわからなかったラシダは、国軍が作戦を展開していたことから、木の上で一晩を明かしたという。
 しかし、姉の家も国軍に監視されるようになり、ラシダはランサの食堂に住みこみ、働きはじめる。このとき出会った男性と結婚したが、結婚初夜、左の乳首がないことを知った夫はラシダを殴った。ラシダは夫の実家に住まわされ、家事労働者のような待遇を受けた。3年前、女の子が生まれたが、母乳をあげることもできないラシダは、ミルク代もシグリのNGOの支援に頼らなくてはならなかった。
 けっきょく夫と離婚し、故郷のピディ県に戻ったラシダは、4カ月前に二度目の結婚、いまは妊娠2カ月である。夫の兄は、国軍に殴られて、精神に障がいをきたしているが、ラシダも夫の兄も、なんの援助も受けられずにいる。

(報告:佐伯奈津子)


投稿者: NINDJA 投稿日時: 2009-5-20 11:46:42 (5893 ヒット)

 マルディエムさんが逝去され、みなさまから集まったカンパの残金については、ほかの元慰安婦の女性また日本軍によって暴力を受けた女性に対して、医療費や杖の購入費などの小規模な支援にあてさせていただきました。エカ・ヒンドラさんからNINDJAに届いたメールを翻訳しましたので、報告に代えてお届けします。

■ エカさんからのメール
 元気ですか? わたしは、元従軍慰安婦の調査のために中部ジャワのいくつかの町をまわり、ジャカルタに戻ったところです。いただいた資金のほとんどは、チマヒ、ボゴール、サラティガの元慰安婦の皆さんに渡すことができました(エマ・カスティマさん、エデさん、チチさん、ラシエムさんの4人に合計100万ルピア)。
 数日前、スマラン県ムンティランに行き、まだご存命の元慰安婦の方を訪ねました。女性との連絡係をしてくださっているムダントさんと会うことができました。ムダントさんによると、元慰安婦はグヌン・キドゥル、バントゥル、マゲラン、トゥマングン、カラン・アニャル(ソロ)、サラティガ、スマラン、ウォノギリ、東ジャワの一部にも暮らしてた(いる)そうです。一体そのうちの何人が、ご存命なのかは確認できませんでした。今後も、またいくつかの地域を訪問し、何人がご健在なのか、また住所と現在の健康状態について確認していく予定です。貧困とすでに高齢であるという状況からみても、存命の方は少ないでしょう。
 サラティガでは、まだご健在のスリ・スカンティさんとお会いすることができました。今回はじめてスリさんにお会いすることができたため、支援金を渡す候補には入っていなかったのですが、急きょスリさんにも資金の一部をお渡ししました。というのも経済状態が非常に悪く、病気も治癒したばかりだったからです。
 もっともお伝えしたいことは、元慰安婦のみなさんは、NINDJAを通じて日本の市民から支援が得られ、とても幸せを感じている、ということです。彼女たちは、何度も何度も感謝の言葉を述べていましたし、高齢を迎えて、日本社会からの心遣いを受け取ることができ、その瞳に幸せの光が指すのが分かりました。日本政府からは、彼女たち歴史の証人に対する謝罪はいまだにありませんが……。
 そして、わたしからもみなさんに深い感謝を伝えたいです。わたしを信頼し、こんな素晴らしい仕事を任せてくれているからです。支援金を渡した女性たちから聞いた話をお伝えします。

■ エマ・カスティマさん
 日本統治下の1942年、エマ・カスティマさんは17歳だった。自宅からほど近い場所に日本軍宿舎が位置していた。エマさんが日本軍に強制的に連行される時、両親は軍の脅迫が怖くて何もできなかった。インドネシア人が運転手をつとめる自動車に乗せられ、日本軍兵士に付き添われて、バンドゥンのチマヒ交差点通りにある従軍慰安婦施設に入れられた。
 その施設には当時8人の女性がいて、到着した半日後には医師の健康診断があり、エマさんは1日約10人の日本軍兵士を相手するよう強制され、時には気を失うこともあった。兵士たちにはコンドームを使うようお願いしたというが「彼らは上官からコンドームを受け取っていたよ」とエマさんは話す。13時から17時までの間に、軍服を着た兵士を5人ほど相手する。その後水浴びと休憩があり、19時から21時までは民間着の兵士を相手した。エマさんが相手をしたのはほとんどが将校クラスであり、態度は良かったという。しかし、時には粗野な態度をとる兵士もいて、そのたいていが下級兵士だったという。
 施設を訪れる兵士はまずチケットを購入しなくてはならず、それはドミノくらいの大きさで茶色っぽい色をしていたとエマさんは証言する。1人の兵士の相手が終了するたびに、事務所から女性性器洗浄用の赤みがかった液体薬品を与えられた。1週間に1度の休日があり、その日は両親の様子を見るために1時間ほどだけ自宅に戻っていたが、その後はすぐ施設に戻らなくてはならなかった。
 日本の敗戦により従軍慰安婦施設も閉鎖になり、監禁されていた女性たちもみな故郷に帰った。エマさんが帰宅すると両親は心労のため病気を患っていた。そして「日本軍につかわれた女性」として地域社会で疎外されたエマさんには、結婚相手はみつからなかった。現在エマさんは、周囲の人びとの助けを受け、親戚の近くで暮らしている。

■ エデさん
 ある朝、14歳だったエデさんは、ランカス・ビトゥン村の水田脇の小道で、軍服姿ではない3人の日本軍兵士に出会った。そしてその場で、その3人に順番に強姦されたという。
 エデさんは、現在すでに82歳だが、健康状態は良好で、近所の人びとの洗濯をすることで何とか食べている。子どもたちも経済的に厳しい状況で暮らしているため、エデさんは子どもたちに生活を頼ることもできない。

■ チチさん
 日本支配下の1942年、チチさんは17歳だった。ボゴールにある自宅は、オランダ人が経営するゴム工場付近にある日本軍宿舎からさほど離れていない場所にあった。ある時、日本軍兵士たちがチチさんの自宅にやってきた。そのうちの1人は片言のインドネシア語が話せたという。彼らは自宅前に座っていたチチさんを室内に引きずり込み、身ぐるみはがして交代で強姦し、チチは気を失ってしまった。事件当時、チチさんの自宅前には近所の人が大勢おしゃべりしており、中には男性もいた。しかし、日本軍兵士の脅迫を怖がって、誰もチチさんを助けることはできなかったという。チチさんは、その後半月にもわたって自宅で強姦しつづけられ、彼女の両親は、娘に対する日本軍の行為に深く傷心し、その後まもなくこの世を去っている。
 現在チチさんは足を痛めているため、医療費のほかに杖を購入するための10万ルピアも支援した。


投稿者: NINDJA 投稿日時: 2007-12-24 13:12:35 (3864 ヒット)

 みなさまから寄せられたカンパから50万ルピア(6250円)を、頭皮のヘルペスにかかっているラシエムさんに支援しました。以下、マルディエムさんの自伝を書いたエカ・ヒンドラティさんからのメールを翻訳したものです。

 ラシエムさんは1943年、17歳のときに「慰安婦」にさせられた。当時、彼女はジョグジャカルタ出身の男性と結婚し、まだ小さな2人の子どもをもうけていた。
 夫が働かなかったため、ラシエムさんは家族を養うため働くことを決意した。ある日、ひとりの女性から仕事を紹介された。長く考えることなく、彼女はその仕事を引き受けた。遠く南ボルネオまで行き、ジョグジャカルタの家族をおいていかなくてはならなかった。
 ラシエムさんは、スラバヤから船に乗ってカリマンタンに向かった。バンジャルマシン行きの船に乗る前、彼女はマドゥラ出身のひとりの女性と出会う。この女性は、ラシエムさんがすでに死亡した自分の子どもとそっくりだったため、ラシエムさんによくしてくれた。この女性は、ラシエムさんに悪いことがあるのではないか、日本からひどい待遇を受けるのではないかと推測する。南カリマンタンに着く前に飲むようにと、この女性はラシエムさんに伝統的な薬のようなものを与えた。
 南カリマンタンのタラワンに到着し、日本の軍と市民の性的欲求を満たすために働かなくてはならないと知り、ラシエムさんは衝撃を受け、絶望した。しかし、ラシエムさんが客に奉仕しようとするたび、突然、足から胸にかけて斑点ができ、汚い膿を出す。当然、ラシエムさんに奉仕されたいと思う客はなかった。奇妙なことに、チカダ(慰安所所長)がラシエムさんに休息させると、治療しなくても斑点は自然に治ってしまうのである。この事件は何度もつづいた。船に乗る前に出会った女性の薬が、ラシエムさんを救ったようだった。
 ラシエムさんは、ほとんど客に奉仕しなかった。そのため、食料や洋服を買うおカネもまったくなかった。ラシエムさんの状況をみたマルディエムさんとリブットさんは、ラシエムさんがおカネを得られるよう、彼女たちの洗濯婦にした。
 45年の日本敗戦後、ラシエムさんはバンジャルマシンで元兵補と結婚し、ジャワに戻った。しばらくして、夫は中カリマンタンのパランカラヤに戻り、別の女性と結婚した。
 現在ラシエムさんは、元兵補だった夫とのあいだに生れた子どもひとりと暮らしている。最近、頭皮のヘルペスにかかった。ヘルペスは、すでに目の神経を侵しており、治療を受けている最中である。


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