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 98年5月のスハルト退陣から十数年がたちました。インドネシアは、改革・民主化の道を歩みはじめたものの、まだまだ多くの課題が残っています。「インドネシア人権基金」は、軍事作戦の被害者や、開発によって生活の基盤を奪われた住民、攻撃されるマイノリティなど、さまざまなかたちで人権を侵害されている人びとに対し、緊急の支援をおこなうものです。
 みなさまからいただいたカンパは責任をもって管理し、インドネシアのNGOなどと協議のうえ、必要なときに届けさせていただきます。ぜひご支援をお寄せください。

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アチェ : 治安部隊による発砲・拷問被害者ムヒブディンへの支援
投稿者: NINDJA 投稿日時: 2002-2-16 15:16:00 (3481 ヒット)

 ムヒブディンは、99年に治安部隊に撃たれ、その後、拷問を受け、耳が聞こえなくなりました。現在、軍に撃たれて手術を受けた跡が、ふたたび傷になり、このまま治療を受けられないと生命も危ない状況です。みなさまから寄せられたカンパから5万円を、北アチェ県PCC(避難民支援をおこなうNGO)を通じて、犠牲者へと送らせていただきました。

■ 犠牲者ムヒブディンの証言
 1999年6月26日7時30分、わたしは行商のために、ピナンを買いに、GL PRO(オートバイ)に乗って、北アチェ県クタ・マクムル郡アル・ンバン・SPIII村へ行きました。途中で、大規模鎮圧騒乱部隊(PPRM/当時アチェに送られていた部隊)のLinud 100部隊が乗ったREO(トラック)3台と行き当たりました。突然、彼らは、理由なく、わたしに発砲してきました。1発の銃弾が、わたしの背中から腹のほうに貫通し、腸が飛び出しました。わたしはオートバイから倒れました。治安部隊は、わたしとわたしのオートバイをトラックに投げ込みました。
 わたしは意識を失いました。気づいたときはロスマウェ(北アチェ県県庁所在地)のケスレム病院(軍の病院)で手術されていました。わたしは左の腎臓をとられ、そのとき腎臓を必要としている軍人に与えられました。集中治療室で1週間、その後、治安部隊に監視されながら、男子用一般病棟で治療を受けました。わたしの腕と足は手錠をかけられていました。
 わたしは拷問を受けました。タバコの火を押し付けられ、喉、頭、局部を殴られ、軍靴で蹴られ、爪を剥がされ、体中を銃で殴られました。言葉による暴力も受けました。わたしは2度目の手術を受けなくてはならなくなりました。腸がまた破損してしまったからです。2度目の手術後も、絶え間ない拷問を受けました。耳が聞こえなくなりました。その後、バンダ・アチェ(アチェの州都)やメダン(隣の北スマトラ州の州都)まで治療を受けに行きましたが、やはり耳は聞こえません。
 3カ月半、ケスレム病院で拷問を受け、わたしはしばしば意識不明になるようになりました。99年10月10日、ロスマウェのプソン村にある叔父を通じて、わたしは家族の元へと帰されました。しかし250万ルピア(約3万円、この地域の人びとの8カ月程度の収入にあたる)払うことが条件でした。叔父の家で、やっと、わたしは意識を回復しました。しかし、まだ状態は安定しておらず、わたしはふたたび意識を失いました。
 家族は、わたしをロスマウェのチュット・ムティア病院へ連れて行きました。1週間後、意識を回復し、村に戻りました。村に戻って2日後、アルン社(日本のODAで建設された天然ガス精製工場)病院チームがやって来て、病院に来るように言いました。治療代はアルン社もちということだったので、家族はわたしをアルン社病院へ運びました。長く入院したあと、家に戻ることを許されましたが、1年間は治療をつづけなくてはいけないといわれました。このとき、わたしは杖をつけば歩けるようになっていました。しかし耳は聞こえませんでした。メダンで治療を受けるよう助言され、メダンに行きましたが、やはりダメでした。さらにシンガポールに行くように言われましたが、治療費が5000万ルピアとのことでした。

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