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インドネシア人権基金へのご協力のお願い
 98年5月のスハルト退陣から十数年がたちました。インドネシアは、改革・民主化の道を歩みはじめたものの、まだまだ多くの課題が残っています。「インドネシア人権基金」は、軍事作戦の被害者や、開発によって生活の基盤を奪われた住民、攻撃されるマイノリティなど、さまざまなかたちで人権を侵害されている人びとに対し、緊急の支援をおこなうものです。
 みなさまからいただいたカンパは責任をもって管理し、インドネシアのNGOなどと協議のうえ、必要なときに届けさせていただきます。ぜひご支援をお寄せください。

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アチェ : 元気なラシダに再会しました
投稿者: NINDJA 投稿日時: 2010-3-5 19:26:56 (3214 ヒット)

 2001年1月、アチェから来日したラシダを覚えていらっしゃるでしょうか。1998年3月に特殊部隊に誘拐され、5カ月間監禁、レイプされた経験を、東京で語ってくれた女性です。ともに来日し、アチェの人権侵害について訴えてくれたアチェ人権NGO連合のマイムル・フィダル代表(当時)は、2004年12月のスマトラ沖地震・津波で死亡、以来ラシダとの連絡をとれなくなっていました。
 2009年12月になって、ようやくラシダの連絡先がわかり、3月4日に9年ぶりの再会を果たすことができました。故マイムル・フィダルが「完璧な被害者」と名付けたほど、さまざまな人権侵害を体験したラシダですが、アチェ再統合庁(BRA)の紛争被害者支援の申請をしても、まったく援助を受けられずに暮らしていました。みなさまからいただき、プールしているインドネシア人権基金から100万ルピア(1万円)を、ラシダの資本(ヤギやアヒルを飼うなど)としてカンパさせていただきましたので、ここに報告させていただきます。

■ ラシダへのインタビュー(2001年1月11〜15日、東京にて)
 1998年、もし間違っていなければ3月の、ある晩12時ごろ、わたしとお母さんとお姉さん、弟が、ルモ・グドン(特殊部隊キャンプになり、拷問・処刑がおこなわれた民家)に連れて行かれたの。自由アチェ運動(GAM)に食糧を援助しているとか、武器を保管しているとか、GAMと結婚したなどと言われて。でも、わたしたちは、そんなこと知らなかった。
 お母さんがレイプされ、その後わたしが、お母さんの前でレイプされたの。彼らに「GAMと結婚しているんだろう」「おまえは処女ではないんだろう」と言われました。「いいえ、誓って違います」と言ったのだけど、「うそつき」と言われた。頭を木で殴られ、性器と乳首に電気ショックをかけられたの。それでも、わたしは気絶しなくて、左の乳首を切り取られたのよ。それで気を失って、レイプされた。気づいたら、お母さんが「ラシダ、いまレイプされたのよ」と言ったの。
 お姉さんもレイプされたの。お姉さんは7カ月の赤ん坊と一緒に連れられてね。赤ん坊は両足を軍につかまれ、頭を下にして何度も振られたの。その赤ん坊の前で、お姉さんはレイプされたの。お姉さんと弟は、2日後に帰されたんだけど、お母さんとわたしは、まだルモ・グドンに残されました。
 ルモ・グドンにいるあいだ、わたしは毎日拷問され、一晩一人ずつ、6人の男にレイプされたの。食事をとると殺すと脅されて、5日に1度くらいしか食べられなかった。村に戻ったときは、すごくやせていて、いまでもあまりご飯を食べられないわ。毎日、彼らの洋服を洗ったり、食事をつくったりさせられたの。イヤだったけど、断れなかった。インドネシア語がわからなくて、彼らの命令を理解できないと、拷問されたし。アチェ人のチュアック(国軍への情報提供者)が通訳をしたの。
 20日後、お母さんが連れ出されたのだけど、いまでもどこにいるかわからない。いまも、ルモ・グドンの話をすると、お母さんのことを思いだして、頭が痛くなる。たくさんの人の前で話すと、頭が痛くなるの。いまでも彼らの名前も顔も覚えている。彼らに会ったら、お母さんをどこに埋めたのか聞きたい。
 5カ月間、ルモ・グドンに閉じこめられたの。毎日、拷問されている人を見たわ。死ぬまで木で殴られる人もいたし、おばあさんが、膣に木やバナナ、瓶を突っ込まれるのも見た。わたしは、たくさんいる犠牲者の一人でしかないのよ。
 92年、お父さんはGAMと疑われて殺さてしまった。家の前で撃たれ、その後、軍に連れて行かれたの。朝4時ごろ、戻ってきた遺体は、頭の皮がはがされ、目も歯もなくなっていたの。父はGAMではなかったのよ。ただの百姓だったのよ。でもGAM司令官の名前とお父さんの名前が一緒だったから…。お父さんが殺される2年前には、家が燃やされたの。本当に、苦しいことばかりだった。
 ウィラント(当時の国軍司令官)がDOM解除を発表して、国家人権委員会が調査に来て、やっと解放されたの。そのあとNGOの人たちが、バンダ・アチェに連れて行ってくれて、治療を受けました。一度、彼らがやってきて、わたしにチュアックになるよう言いに来たんだって。でも、わたしは出かけていたの。そのあとは、もう来なかったけど。
 いまは弟と妹4人とおばあちゃんと抱えて暮らしているの。まだ弟も妹も小さいし、学校にやらなくてはならないのでたいへん。田んぼで賃労働をして、田植えをしたり、草むしりをしたりしているの。半日働いて8000ルピア。まだ男の人が怖くて、結婚したいと思わない。
 アチェは独立しなければ、同じことがずっと起きてしまう。わたしたちの目的は独立だけ。

■ その後のラシダ
 2003年、軍事戒厳令が布かれた際、特殊部隊に再度誘拐され、シグリの海岸沿いのキャンプに連行され、「外国に国を売った」と非難された。ピディ県シグリのNGOの支援で保護され、北スマトラ州メダンに避難するが、シグリの自宅が焼かれたことから、メダンにいることに耐えられず、東アチェ県ランサに住む姉のところに身を寄せた。ランサのバス・ターミナルに夜到着、姉の家までの道がわからなかったラシダは、国軍が作戦を展開していたことから、木の上で一晩を明かしたという。
 しかし、姉の家も国軍に監視されるようになり、ラシダはランサの食堂に住みこみ、働きはじめる。このとき出会った男性と結婚したが、結婚初夜、左の乳首がないことを知った夫はラシダを殴った。ラシダは夫の実家に住まわされ、家事労働者のような待遇を受けた。3年前、女の子が生まれたが、母乳をあげることもできないラシダは、ミルク代もシグリのNGOの支援に頼らなくてはならなかった。
 けっきょく夫と離婚し、故郷のピディ県に戻ったラシダは、4カ月前に二度目の結婚、いまは妊娠2カ月である。夫の兄は、国軍に殴られて、精神に障がいをきたしているが、ラシダも夫の兄も、なんの援助も受けられずにいる。

(報告:佐伯奈津子)

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