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インドネシア人権基金へのご協力のお願い
 98年5月のスハルト退陣から十数年がたちました。インドネシアは、改革・民主化の道を歩みはじめたものの、まだまだ多くの課題が残っています。「インドネシア人権基金」は、軍事作戦の被害者や、開発によって生活の基盤を奪われた住民、攻撃されるマイノリティなど、さまざまなかたちで人権を侵害されている人びとに対し、緊急の支援をおこなうものです。
 みなさまからいただいたカンパは責任をもって管理し、インドネシアのNGOなどと協議のうえ、必要なときに届けさせていただきます。ぜひご支援をお寄せください。

Warung NINDJAからご支援いただけます
投稿者: NINDJA 投稿日時: 2007-12-21 20:16:00 (3180 ヒット)

 2007年12月20日22時30分(日本時間21日0時30分)、マルディエムさんが亡くなられました。マルディエムさんのご冥福をお祈り申し上げます。
 なお、みなさまから寄せられていたカンパ残金から200万ルピア(約2万5000円)を、マルディエムさんの伝記作家エカ・ヒンドラティさんを通じて、21日におこなされたお葬式代として寄付させていただきました。

■ 「従軍慰安婦」問題を訴え続けたマルディエム、死去
 元「従軍慰安婦」として闘い続けてきたマルディエム(79歳)が、20日22時30分(西部時間)、ジョグジャカルタ市の自宅で病気のため息をひきとった。息子のマルディヨノ(60歳)によれば、断食月に高血圧症が再発し、家で転倒して以来、寝たきりだったという。
 マルディエムの弁護士であるブディ・ハルトノは、「彼女は仲間のためにつねに闘い続けてきた。『従軍慰安婦』が、日本によって雇われた売春婦ではなく、性的虐待の被害者であったことを国内や国際社会に広く知らせることによって」と語った。そして彼女の闘いによって、歴史教科書に「従軍慰安婦」の問題が掲載され、そのことは政府からも肯定的に受け止められたことなどに触れ、マルディエムの闘いが決して無駄ではなかったと述べた。(Antara, 07/12/21)

(写真はマルディエムさんのお墓)


投稿者: NINDJA 投稿日時: 2007-9-27 0:07:10 (3008 ヒット)

 9月19日、マルディエムさんの伝記作家エカ・ヒンドラティさんを通じて、まず500万ルピアを支援させていただきました。エカさんから連絡がありましたので、ご報告させていただきます。
 なお、マルディエムさんからのメッセージにもあるとおり、ほかの元慰安婦の女性たちも同様に、支援を必要とされているようです。ジョグジャカルタの支援団体・支援者と相談のうえ、責任をもって届けさせていただくようにしますので、みなさまからの引き続きのご支援をお願いいたします。

■ 9月19日のメール

 マルディエムさんの介護のため、日本のみなさんからご支援いただき、ありがとうございます。先ほど、マルディエムさんに会ってきました。状態はかなり回復しており、両足の麻痺もなくなりました。左手も動かすことができます。ただ、まだ動くのは困難な状況です。すでに話すことも、ほほ笑むこともできます。再び闘うことができるよう、回復を祈ってほしいということでした。

■ 9月26日のメール

 マルディエムさんの介護のために支援してくださった日本のみなさんに、マルディエムさんからのメッセージをお伝えします。マルディエムさんは、日本のみなさんが関心を払ってくださったことに、多大な感謝をしています。ただ彼女だけでなく、介護を必要としている、ほかの元従軍慰安婦の女性たちへの支援も期待されています。
 現在、マルディエムさんの健康状態はかなりよくなっており、歩いたり、笑ったりすることができるようになりました。マルディエムさんの状況がもっとよくなり、従軍慰安婦問題で闘うことができるよう願っています。

(写真は左からエカさん、マルディヨノさん、マルディエムさん)


投稿者: NINDJA 投稿日時: 2007-9-19 13:29:57 (2799 ヒット)

 「慰安婦問題は本当にあったことです。謝罪や補償と同じくらい大切なことは、次世代に事実を伝えることです。わたしは、13歳で慰安婦にならされました。家は王宮に仕えていたので、お金に困って売春婦になる必要はありませんでした。日本がわたしたちを強制的に『慰安婦』にした事実は紛れもない事実です。過ちを繰り返さないためにも、事実を若い人たちに知ってもらいたいのです」(*)
 2000年12月、東京で開かれた民衆法廷「女性国際戦犯法廷」の記者会見で、マルディエムさんはこう語りました。「歴史の証言者」として、厳しい環境のなか闘ってきた彼女は、約1週間前、脳卒中に倒れました。両足とも麻痺しているマルディエムさんの介護費用のため、支援をお寄せください。

■ マルディエムさんの伝記作家エカ・ヒンドラティさんより
 マルディエムさんは、約1週間前、ジョグジャカルタのLBH(法律擁護協会)から戻られたあと、倒れられました。両足とも麻痺し、左手は麻痺しましたが、現在は少しずつ動かせるようになりました。ただ、何かをつかむことはできません。すべての行動は、寝っ転がったままです。
 マルディエムさんを介護しているのは、息子のマルディヨノさんです。卒中後、マルディエムさんの記憶にも障害が出ているようにみえます。数日前には、マルディヨノさん以外の人を認識できませんでした。話にも混乱がみられ、過去の話、従軍慰安婦時代や小さかったころの話をしています。
 マルディエムさんのところに往診に来てくれる医者に診察してもらう必要があると思います。もうひとつ緊急なのは、マルディエムさんの日々の生活に必要なもの、たとえばパン、ミルク、ビスケットといった食料や、マット、枕、毛布といった寝具のための資金です。
 マルディエムさんは、従軍慰安婦の闘いが依然として成果をみせないことで、大きな精神的重圧を負っています。そのため卒中に襲われたのです。当面は、500万ルピア(約7万円)あれば、生活必需品をまかなうことができます。集められた資金は、息子のマルディヨノさんに渡します。

■ マルディエムさんとは
 1929年、ジョグジャカルタの王宮に仕える家で生まれる。13歳だった1942年、夢だった歌手になれるとだまされ、カリマンタンのバンジャルマシンで従軍慰安婦として 3年間働かされる。2000年12月、女性国際戦犯法廷に参加。ドキュメンタリー映画『マルディエム 彼女の人生に起きたこと』(海南友子)も制作されている。

* 海南友子「歴史の証言者として―闘うマルディエム」ニンジャ・ニュースレターNo.38、2001年11月


投稿者: NINDJA 投稿日時: 2007-3-31 20:55:00 (3309 ヒット)

 2007年3月、中スラウェシ州ポソを訪れた際、みなさまから寄せられたカンパ15万円=約1100万ルピアのうち、紛争犠牲者の4家族に200万ルピアずつ、残りを紛争解決に向けて取り組む中スラウェシのNGO連合体「ポソ・センター」に届けてきました。
 これまでカンパをくださった方がたにお礼申し上げるとともに、今後もご支援いただきますよう、よろしくお願いいたします。


投稿者: NINDJA 投稿日時: 2002-2-16 15:16:00 (3334 ヒット)

 ムヒブディンは、99年に治安部隊に撃たれ、その後、拷問を受け、耳が聞こえなくなりました。現在、軍に撃たれて手術を受けた跡が、ふたたび傷になり、このまま治療を受けられないと生命も危ない状況です。みなさまから寄せられたカンパから5万円を、北アチェ県PCC(避難民支援をおこなうNGO)を通じて、犠牲者へと送らせていただきました。

■ 犠牲者ムヒブディンの証言
 1999年6月26日7時30分、わたしは行商のために、ピナンを買いに、GL PRO(オートバイ)に乗って、北アチェ県クタ・マクムル郡アル・ンバン・SPIII村へ行きました。途中で、大規模鎮圧騒乱部隊(PPRM/当時アチェに送られていた部隊)のLinud 100部隊が乗ったREO(トラック)3台と行き当たりました。突然、彼らは、理由なく、わたしに発砲してきました。1発の銃弾が、わたしの背中から腹のほうに貫通し、腸が飛び出しました。わたしはオートバイから倒れました。治安部隊は、わたしとわたしのオートバイをトラックに投げ込みました。
 わたしは意識を失いました。気づいたときはロスマウェ(北アチェ県県庁所在地)のケスレム病院(軍の病院)で手術されていました。わたしは左の腎臓をとられ、そのとき腎臓を必要としている軍人に与えられました。集中治療室で1週間、その後、治安部隊に監視されながら、男子用一般病棟で治療を受けました。わたしの腕と足は手錠をかけられていました。
 わたしは拷問を受けました。タバコの火を押し付けられ、喉、頭、局部を殴られ、軍靴で蹴られ、爪を剥がされ、体中を銃で殴られました。言葉による暴力も受けました。わたしは2度目の手術を受けなくてはならなくなりました。腸がまた破損してしまったからです。2度目の手術後も、絶え間ない拷問を受けました。耳が聞こえなくなりました。その後、バンダ・アチェ(アチェの州都)やメダン(隣の北スマトラ州の州都)まで治療を受けに行きましたが、やはり耳は聞こえません。
 3カ月半、ケスレム病院で拷問を受け、わたしはしばしば意識不明になるようになりました。99年10月10日、ロスマウェのプソン村にある叔父を通じて、わたしは家族の元へと帰されました。しかし250万ルピア(約3万円、この地域の人びとの8カ月程度の収入にあたる)払うことが条件でした。叔父の家で、やっと、わたしは意識を回復しました。しかし、まだ状態は安定しておらず、わたしはふたたび意識を失いました。
 家族は、わたしをロスマウェのチュット・ムティア病院へ連れて行きました。1週間後、意識を回復し、村に戻りました。村に戻って2日後、アルン社(日本のODAで建設された天然ガス精製工場)病院チームがやって来て、病院に来るように言いました。治療代はアルン社もちということだったので、家族はわたしをアルン社病院へ運びました。長く入院したあと、家に戻ることを許されましたが、1年間は治療をつづけなくてはいけないといわれました。このとき、わたしは杖をつけば歩けるようになっていました。しかし耳は聞こえませんでした。メダンで治療を受けるよう助言され、メダンに行きましたが、やはりダメでした。さらにシンガポールに行くように言われましたが、治療費が5000万ルピアとのことでした。


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