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インドネシア人権基金へのご協力のお願い
 98年5月のスハルト退陣から十数年がたちました。インドネシアは、改革・民主化の道を歩みはじめたものの、まだまだ多くの課題が残っています。「インドネシア人権基金」は、軍事作戦の被害者や、開発によって生活の基盤を奪われた住民、攻撃されるマイノリティなど、さまざまなかたちで人権を侵害されている人びとに対し、緊急の支援をおこなうものです。
 みなさまからいただいたカンパは責任をもって管理し、インドネシアのNGOなどと協議のうえ、必要なときに届けさせていただきます。ぜひご支援をお寄せください。

Warung NINDJAからご支援いただけます
投稿者: NINDJA 投稿日時: 2009-5-20 11:46:42 (5892 ヒット)

 マルディエムさんが逝去され、みなさまから集まったカンパの残金については、ほかの元慰安婦の女性また日本軍によって暴力を受けた女性に対して、医療費や杖の購入費などの小規模な支援にあてさせていただきました。エカ・ヒンドラさんからNINDJAに届いたメールを翻訳しましたので、報告に代えてお届けします。

■ エカさんからのメール
 元気ですか? わたしは、元従軍慰安婦の調査のために中部ジャワのいくつかの町をまわり、ジャカルタに戻ったところです。いただいた資金のほとんどは、チマヒ、ボゴール、サラティガの元慰安婦の皆さんに渡すことができました(エマ・カスティマさん、エデさん、チチさん、ラシエムさんの4人に合計100万ルピア)。
 数日前、スマラン県ムンティランに行き、まだご存命の元慰安婦の方を訪ねました。女性との連絡係をしてくださっているムダントさんと会うことができました。ムダントさんによると、元慰安婦はグヌン・キドゥル、バントゥル、マゲラン、トゥマングン、カラン・アニャル(ソロ)、サラティガ、スマラン、ウォノギリ、東ジャワの一部にも暮らしてた(いる)そうです。一体そのうちの何人が、ご存命なのかは確認できませんでした。今後も、またいくつかの地域を訪問し、何人がご健在なのか、また住所と現在の健康状態について確認していく予定です。貧困とすでに高齢であるという状況からみても、存命の方は少ないでしょう。
 サラティガでは、まだご健在のスリ・スカンティさんとお会いすることができました。今回はじめてスリさんにお会いすることができたため、支援金を渡す候補には入っていなかったのですが、急きょスリさんにも資金の一部をお渡ししました。というのも経済状態が非常に悪く、病気も治癒したばかりだったからです。
 もっともお伝えしたいことは、元慰安婦のみなさんは、NINDJAを通じて日本の市民から支援が得られ、とても幸せを感じている、ということです。彼女たちは、何度も何度も感謝の言葉を述べていましたし、高齢を迎えて、日本社会からの心遣いを受け取ることができ、その瞳に幸せの光が指すのが分かりました。日本政府からは、彼女たち歴史の証人に対する謝罪はいまだにありませんが……。
 そして、わたしからもみなさんに深い感謝を伝えたいです。わたしを信頼し、こんな素晴らしい仕事を任せてくれているからです。支援金を渡した女性たちから聞いた話をお伝えします。

■ エマ・カスティマさん
 日本統治下の1942年、エマ・カスティマさんは17歳だった。自宅からほど近い場所に日本軍宿舎が位置していた。エマさんが日本軍に強制的に連行される時、両親は軍の脅迫が怖くて何もできなかった。インドネシア人が運転手をつとめる自動車に乗せられ、日本軍兵士に付き添われて、バンドゥンのチマヒ交差点通りにある従軍慰安婦施設に入れられた。
 その施設には当時8人の女性がいて、到着した半日後には医師の健康診断があり、エマさんは1日約10人の日本軍兵士を相手するよう強制され、時には気を失うこともあった。兵士たちにはコンドームを使うようお願いしたというが「彼らは上官からコンドームを受け取っていたよ」とエマさんは話す。13時から17時までの間に、軍服を着た兵士を5人ほど相手する。その後水浴びと休憩があり、19時から21時までは民間着の兵士を相手した。エマさんが相手をしたのはほとんどが将校クラスであり、態度は良かったという。しかし、時には粗野な態度をとる兵士もいて、そのたいていが下級兵士だったという。
 施設を訪れる兵士はまずチケットを購入しなくてはならず、それはドミノくらいの大きさで茶色っぽい色をしていたとエマさんは証言する。1人の兵士の相手が終了するたびに、事務所から女性性器洗浄用の赤みがかった液体薬品を与えられた。1週間に1度の休日があり、その日は両親の様子を見るために1時間ほどだけ自宅に戻っていたが、その後はすぐ施設に戻らなくてはならなかった。
 日本の敗戦により従軍慰安婦施設も閉鎖になり、監禁されていた女性たちもみな故郷に帰った。エマさんが帰宅すると両親は心労のため病気を患っていた。そして「日本軍につかわれた女性」として地域社会で疎外されたエマさんには、結婚相手はみつからなかった。現在エマさんは、周囲の人びとの助けを受け、親戚の近くで暮らしている。

■ エデさん
 ある朝、14歳だったエデさんは、ランカス・ビトゥン村の水田脇の小道で、軍服姿ではない3人の日本軍兵士に出会った。そしてその場で、その3人に順番に強姦されたという。
 エデさんは、現在すでに82歳だが、健康状態は良好で、近所の人びとの洗濯をすることで何とか食べている。子どもたちも経済的に厳しい状況で暮らしているため、エデさんは子どもたちに生活を頼ることもできない。

■ チチさん
 日本支配下の1942年、チチさんは17歳だった。ボゴールにある自宅は、オランダ人が経営するゴム工場付近にある日本軍宿舎からさほど離れていない場所にあった。ある時、日本軍兵士たちがチチさんの自宅にやってきた。そのうちの1人は片言のインドネシア語が話せたという。彼らは自宅前に座っていたチチさんを室内に引きずり込み、身ぐるみはがして交代で強姦し、チチは気を失ってしまった。事件当時、チチさんの自宅前には近所の人が大勢おしゃべりしており、中には男性もいた。しかし、日本軍兵士の脅迫を怖がって、誰もチチさんを助けることはできなかったという。チチさんは、その後半月にもわたって自宅で強姦しつづけられ、彼女の両親は、娘に対する日本軍の行為に深く傷心し、その後まもなくこの世を去っている。
 現在チチさんは足を痛めているため、医療費のほかに杖を購入するための10万ルピアも支援した。


投稿者: NINDJA 投稿日時: 2007-12-24 13:12:35 (3863 ヒット)

 みなさまから寄せられたカンパから50万ルピア(6250円)を、頭皮のヘルペスにかかっているラシエムさんに支援しました。以下、マルディエムさんの自伝を書いたエカ・ヒンドラティさんからのメールを翻訳したものです。

 ラシエムさんは1943年、17歳のときに「慰安婦」にさせられた。当時、彼女はジョグジャカルタ出身の男性と結婚し、まだ小さな2人の子どもをもうけていた。
 夫が働かなかったため、ラシエムさんは家族を養うため働くことを決意した。ある日、ひとりの女性から仕事を紹介された。長く考えることなく、彼女はその仕事を引き受けた。遠く南ボルネオまで行き、ジョグジャカルタの家族をおいていかなくてはならなかった。
 ラシエムさんは、スラバヤから船に乗ってカリマンタンに向かった。バンジャルマシン行きの船に乗る前、彼女はマドゥラ出身のひとりの女性と出会う。この女性は、ラシエムさんがすでに死亡した自分の子どもとそっくりだったため、ラシエムさんによくしてくれた。この女性は、ラシエムさんに悪いことがあるのではないか、日本からひどい待遇を受けるのではないかと推測する。南カリマンタンに着く前に飲むようにと、この女性はラシエムさんに伝統的な薬のようなものを与えた。
 南カリマンタンのタラワンに到着し、日本の軍と市民の性的欲求を満たすために働かなくてはならないと知り、ラシエムさんは衝撃を受け、絶望した。しかし、ラシエムさんが客に奉仕しようとするたび、突然、足から胸にかけて斑点ができ、汚い膿を出す。当然、ラシエムさんに奉仕されたいと思う客はなかった。奇妙なことに、チカダ(慰安所所長)がラシエムさんに休息させると、治療しなくても斑点は自然に治ってしまうのである。この事件は何度もつづいた。船に乗る前に出会った女性の薬が、ラシエムさんを救ったようだった。
 ラシエムさんは、ほとんど客に奉仕しなかった。そのため、食料や洋服を買うおカネもまったくなかった。ラシエムさんの状況をみたマルディエムさんとリブットさんは、ラシエムさんがおカネを得られるよう、彼女たちの洗濯婦にした。
 45年の日本敗戦後、ラシエムさんはバンジャルマシンで元兵補と結婚し、ジャワに戻った。しばらくして、夫は中カリマンタンのパランカラヤに戻り、別の女性と結婚した。
 現在ラシエムさんは、元兵補だった夫とのあいだに生れた子どもひとりと暮らしている。最近、頭皮のヘルペスにかかった。ヘルペスは、すでに目の神経を侵しており、治療を受けている最中である。


投稿者: NINDJA 投稿日時: 2007-12-21 20:16:00 (3161 ヒット)

 2007年12月20日22時30分(日本時間21日0時30分)、マルディエムさんが亡くなられました。マルディエムさんのご冥福をお祈り申し上げます。
 なお、みなさまから寄せられていたカンパ残金から200万ルピア(約2万5000円)を、マルディエムさんの伝記作家エカ・ヒンドラティさんを通じて、21日におこなされたお葬式代として寄付させていただきました。

■ 「従軍慰安婦」問題を訴え続けたマルディエム、死去
 元「従軍慰安婦」として闘い続けてきたマルディエム(79歳)が、20日22時30分(西部時間)、ジョグジャカルタ市の自宅で病気のため息をひきとった。息子のマルディヨノ(60歳)によれば、断食月に高血圧症が再発し、家で転倒して以来、寝たきりだったという。
 マルディエムの弁護士であるブディ・ハルトノは、「彼女は仲間のためにつねに闘い続けてきた。『従軍慰安婦』が、日本によって雇われた売春婦ではなく、性的虐待の被害者であったことを国内や国際社会に広く知らせることによって」と語った。そして彼女の闘いによって、歴史教科書に「従軍慰安婦」の問題が掲載され、そのことは政府からも肯定的に受け止められたことなどに触れ、マルディエムの闘いが決して無駄ではなかったと述べた。(Antara, 07/12/21)

(写真はマルディエムさんのお墓)


投稿者: NINDJA 投稿日時: 2007-9-27 0:07:10 (2999 ヒット)

 9月19日、マルディエムさんの伝記作家エカ・ヒンドラティさんを通じて、まず500万ルピアを支援させていただきました。エカさんから連絡がありましたので、ご報告させていただきます。
 なお、マルディエムさんからのメッセージにもあるとおり、ほかの元慰安婦の女性たちも同様に、支援を必要とされているようです。ジョグジャカルタの支援団体・支援者と相談のうえ、責任をもって届けさせていただくようにしますので、みなさまからの引き続きのご支援をお願いいたします。

■ 9月19日のメール

 マルディエムさんの介護のため、日本のみなさんからご支援いただき、ありがとうございます。先ほど、マルディエムさんに会ってきました。状態はかなり回復しており、両足の麻痺もなくなりました。左手も動かすことができます。ただ、まだ動くのは困難な状況です。すでに話すことも、ほほ笑むこともできます。再び闘うことができるよう、回復を祈ってほしいということでした。

■ 9月26日のメール

 マルディエムさんの介護のために支援してくださった日本のみなさんに、マルディエムさんからのメッセージをお伝えします。マルディエムさんは、日本のみなさんが関心を払ってくださったことに、多大な感謝をしています。ただ彼女だけでなく、介護を必要としている、ほかの元従軍慰安婦の女性たちへの支援も期待されています。
 現在、マルディエムさんの健康状態はかなりよくなっており、歩いたり、笑ったりすることができるようになりました。マルディエムさんの状況がもっとよくなり、従軍慰安婦問題で闘うことができるよう願っています。

(写真は左からエカさん、マルディヨノさん、マルディエムさん)


投稿者: NINDJA 投稿日時: 2007-9-19 13:29:57 (2781 ヒット)

 「慰安婦問題は本当にあったことです。謝罪や補償と同じくらい大切なことは、次世代に事実を伝えることです。わたしは、13歳で慰安婦にならされました。家は王宮に仕えていたので、お金に困って売春婦になる必要はありませんでした。日本がわたしたちを強制的に『慰安婦』にした事実は紛れもない事実です。過ちを繰り返さないためにも、事実を若い人たちに知ってもらいたいのです」(*)
 2000年12月、東京で開かれた民衆法廷「女性国際戦犯法廷」の記者会見で、マルディエムさんはこう語りました。「歴史の証言者」として、厳しい環境のなか闘ってきた彼女は、約1週間前、脳卒中に倒れました。両足とも麻痺しているマルディエムさんの介護費用のため、支援をお寄せください。

■ マルディエムさんの伝記作家エカ・ヒンドラティさんより
 マルディエムさんは、約1週間前、ジョグジャカルタのLBH(法律擁護協会)から戻られたあと、倒れられました。両足とも麻痺し、左手は麻痺しましたが、現在は少しずつ動かせるようになりました。ただ、何かをつかむことはできません。すべての行動は、寝っ転がったままです。
 マルディエムさんを介護しているのは、息子のマルディヨノさんです。卒中後、マルディエムさんの記憶にも障害が出ているようにみえます。数日前には、マルディヨノさん以外の人を認識できませんでした。話にも混乱がみられ、過去の話、従軍慰安婦時代や小さかったころの話をしています。
 マルディエムさんのところに往診に来てくれる医者に診察してもらう必要があると思います。もうひとつ緊急なのは、マルディエムさんの日々の生活に必要なもの、たとえばパン、ミルク、ビスケットといった食料や、マット、枕、毛布といった寝具のための資金です。
 マルディエムさんは、従軍慰安婦の闘いが依然として成果をみせないことで、大きな精神的重圧を負っています。そのため卒中に襲われたのです。当面は、500万ルピア(約7万円)あれば、生活必需品をまかなうことができます。集められた資金は、息子のマルディヨノさんに渡します。

■ マルディエムさんとは
 1929年、ジョグジャカルタの王宮に仕える家で生まれる。13歳だった1942年、夢だった歌手になれるとだまされ、カリマンタンのバンジャルマシンで従軍慰安婦として 3年間働かされる。2000年12月、女性国際戦犯法廷に参加。ドキュメンタリー映画『マルディエム 彼女の人生に起きたこと』(海南友子)も制作されている。

* 海南友子「歴史の証言者として―闘うマルディエム」ニンジャ・ニュースレターNo.38、2001年11月