■ 東アチェ県シンパン・ウリム郡クアラ村
5月16日、クアラ村を訪れました。
クアラ村では現在、リンタス・インドネシアによって建てられることになった小学校の恒久校舎を立てるための土台づくりがほぼ完了しました。また家建設のための土台づくりもほぼ終わっています。住民の情報によると、土台づくりは、ドイツ技術協力公社(GTZ)、家の建設はアチェ・ニアス復興庁(BRR)、学校建設はリンタス・インドネシアが担うそうです。
当初、住民は、重機や材料の供給を自身でおこなうことを望んでいましたが、みながそれらを手に入れることを求めたため、結局その機会を失ってしまい、住民は労働者として参加するにとどまっています。住民の結束のなさは、住民参加に影響を与えています。
■ 北アチェ県西バクティア郡
5月19日、西バクティア郡ムナサ・ハグ村、ブラン・ル村、ブランデ・パヤ村、ロッ・ウンチン村、パヤ・バトゥン村を訪問しました。NINDJAが支援したバライ・プンガジアン(子どもたちがコーラン詠みの練習をする施設)や井戸などは、いまも役立っています。
現在、住民たちは、さまざまなお店で、アチェ再統合機関(BRA)に提出したプロポーザルについて話しています。何人かの住民は、紛争犠牲者であるにもかかわらず(つまり、BRAの資金を受ける権利を有しているのにもかかわらず)、BRAの資金に期待を抱いていないと語っていました。
パヤ・バトゥン村では、いまだに、津波被災者のための11軒の家が建てられていません。建設は、国際移住機関(IOM)とBRRのあいだの綱引き状態になっています。そのほか、セーブ・ザ・チルドレンは、恵まれない人たちのための家30軒を、来月、建設しはじめるようです。
(報告:Jari Aceh)
■ マタン・スリメンにサッカーボール
4月8日、北アチェ県サムドゥラ郡マタン・スリメン集落で、バレーボール2個、サッカーボール2個を供与しました。子どもたちはさっそくバレーボールの試合をおこなっていました。バライ・プンガジアン(コーラン詠みの練習場)も完成しました。
■ マタン・スリメンで柵づくり
5月16日、マタン・スリメン集落を訪れました。家の柵はすべて完成し、人びとはみな、イモ、トウモロコシ、トマト、キュウリなどを植えています。若者たちは、バレーボールやサッカーで遊んでいますが、バレーボール用のネットがないため、ぜひ支援してほしいと頼まれました。
(報告:Jari Aceh)
東アチェ県シンパン・ウリム郡クアラ村で仮設学校建設に携わってくれている大工さんたちに2回目の賃金、ドアノブと釘を届けました。大工さんたちは、「何十年ももつぞ」と太鼓判を押してくれました。小学校としての機能を果たし終えても、集会施設その他として利用しつづけてくれるようです。
建設は、残すところ屋根と床のみ。なんとか、わたしの帰国までに完成にこぎつける見込みがたちました。そこで、クアラ村でも、4月1日にプシジュッをおこなうことになりました。おじさんたちが「ヤギを解体するか? 牛を解体するか?」と冗談で聞いてくるので、わたしも冗談、いや本気で「牛は高いから無理!」と応酬。でもせっかくなので、ヤギは3頭ほど解体してもいいのではないかと提案してみました。
おじさんたち全員から「高いから必要ない。3頭解体すると300万ルピア(今回の両替ルートは1円=76ルピア)だぞ」と猛烈な反対に遭いました。さらに「学校建設で、たくさん資金をつかったんだから」とも。けっきょく、ヤギはなくなり、もち米とヤシ、コーヒー、水のみとなりました。かかる経費は50万ルピア。ジャカルタあたりなら、1回の食事代でなくなりそうな額です。
こういう村の人たちの反応をみていると、政府や国際機関がおこなうプロジェクトの規模について、ついつい考えてしまいます。仮に日本政府がクアラ村で学校建設を支援するとなったら、千万単位の額になるのではないでしょうか。仮設学校でも、まさか100万円をくだることはないでしょう。
いっぽう、今回かかった経費は、資材3000万ルピア、賃金700万ルピアです。それでも、村の人たちの、わたしたちに向ける視線と笑顔から、十分喜んでもらっているのが伝わってきます。「援助」の現場でもっとも重要なのは、受ける側となる人びととどのような関係を築くかなのではないでしょうか。
津波後、NINDJAが支援活動をはじめて1年以上がたちました。このような活動は、NINDJAにとっても、わたし自身にとっても、はじめての経験でした。もちろん、たくさんの失敗がありました。それでも大きな問題にならなかったのは、被災地域の人びとと友人関係を築けたためだと思います。わたしたちが気づかない失敗について、人びとが解決策を教えてくれたり、かばってくれたり、人びとに支えられてこその活動でした。
現時点で、日本のみなさまから寄せられたカンパは約1800万円、残金は350万円程度です。莫大な援助がアチェに流れ込んでいる割には、被災者に届いていないという残念な状況ですので、NINDJAならではの活動を、被災者と話し合いながら、丁寧に、可能な限り長期にわたり、つづけていきたいと考えています。今後も、ご支援いただけると幸いです。
(報告:佐伯奈津子)
24日、スヌドン郡マタン・ラダ村のバライ・プンガジアン(コーラン詠みの練習場)が完成、本日、そのプシジュッ(お清めの儀式)がおこなわれました。ここで「先生」をするトゥンク・イマム・アブドゥラは、なんと日本軍の兵補だったそうです。「日本の歌も歌える」と笑うので、「見よ東海の…」がはじまるかと思ってしまいました。
思わず、数年前、パプアの浜辺で歓迎の儀式として、おじいちゃんたちが「君が代」と「見よ東海の…」と歌ってくれたことを思い出してしまいました。本来ならヨスファン(人びとが踊りながら歌う)が流れる明るく開放的なパプアの海辺の光景での「君が代」のメロディは、はっきり言ってミスマッチ。シュールでした。
閑話休題。プシジュッでは、トゥンク・イマムがお祈りのことばを唱えながら、炊いたもち米とヤシの実を削ったものを手でこね、準備を整えます。コメと籾を四方に撒き、つづいて花と葉を水にひたし、その水を撒きます。さらに、もち米とヤシを柱にこすりつけます。これは、学問が身につくようにとの願いを込めたものだそうです。 その後、みんなで残りのもち米とヤシを食べながら、おしゃべりをしました。マタン・ラダ村では、昨年夏、女性たちに塩づくりの道具を支援しました。男性たちの生計の場は、養殖池か水田で、津波で破壊されました。6月ごろ、津波後はじめての田植えをする予定だそうです。灌漑施設がないため、田植えの時期は雨次第となります。4カ月で津波後初の収穫を迎えます。もし田植えか、収穫の時期に、アチェにいることができたら、わたしも必ず参加すると宣言してきました。
(報告:佐伯奈津子)
2006年3月14日の報告で書いたマタン・スリメン集落のカマットさんの義足が完成しました。
カマットさんは、アチェ語が話せず、インドネシア語もバタックなまりです。てっきり北スマトラ州メダン出身かと思っていたら、実は中アチェ県出身のガヨ人でした。お連れ合いは、北アチェ県でやはり津波に被災したバユ郡ランチョッ村の出身。メダンのハンセン病療養施設(?)で出会い、すぐに恋に落ち、結婚したそうです。2年ほど前、ハンセン・コロニーのマタン・スリメン集落に移り、そして津波に遭いました。
津波で義足を失い、その後メダン在住の人に新しい義足を支援されたのですが、長すぎてつかえないとのこと。義足の修理の支援をすることにしました。 15日、カマットさんとお連れ合いを迎えに行き、義足をつくっているおじさんの住むタナ・パシール郡マタン・トゥノン村(ここも軽微ながら津波被災村)に行きました。マタン・スリメン集落同様ハンセン・コロニーのタナ・パシール郡西クアラ・クルト村のマルズキさんの義足も、彼につくってもらいました。義足をつくっているおじさんも、生まれたときから片足のひざ下がなく、やはり義足をしていました。
カマットさんが義足を装着してみると、たしかに長すぎます。まさか義足をつけた足を曲げたまま、歩けるわけがありません。マルズキさんの義足は、なんら問題なく、マルズキさんはどこへでも自転車に乗って出かけているのに、カマットさんのはなぜこんなことに? 話を聞くと、カマットさん本人がマタン・トゥノン村まで来たのではなく、支援者が足の長さを測って、義足づくりのおじさんに伝えただけだったらしいのです。
義足の上のほうを切っても、下のほうを切っても、太さが合わなくなってしまうため、けっきょく、新たに義足をつくりなおしてもらうことになったのでした。
そして本日、いよいよ義足ができたとの連絡を受け、再びカマットさんとマタン・トゥノンに出かけることになりました。わたしは残念ながら別件で行くことができなかったのですが、写真を見る限り、カマットさん、かなりうれしそうです。ポーズも決まっています。
ただ、ひざに大きな傷があるため、義足があたらないようガーゼをあてなくてはなりません(おじさんは、それも考えて、少し口を広めに義足をつくってくれたとか)。さらに、ずっとひざを曲げる生活がつづいていたため、義足をつけて歩行訓練が必要なようです。でも、マタン・スリメン集落で見た、いつも黙々と作業をしているカマットさんなら、きっと障害を乗り越えていくのだろうと思います。
(報告:佐伯奈津子)