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アチェ人道支援へのご協力のお願い
■ 紛争被害・津波被災女性支援
 2004年末のスマトラ沖地震・津波を受けて、2005年8月15日、インドネシア政府と自由アチェ運動(GAM)のあいだで和平合意が結ばれました。しかし、アチェ自治政府の権限や、人権法廷、紛争被害者への補償など、まだ多くの課題が残されています。
 GAMに参加している、支援していると疑われただけで、若い男性が殺害され、拷問され、誘拐されてきた状況で、一家の働き手を失ったり、家を焼き討ちにされたり、財産を略奪されたりした女性たちは、現在も困難な生活を強いられています。
 NINDJAは、とくに軍事作戦の激しかった北アチェ県を中心に、紛争被害者と津波被災者(とくに女性)への支援を開始しました。ぜひご支援ください。

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■ 軍事作戦で父親を殺された子どもたちへの奨学金
 1989年から1998年まで軍事作戦地域(DOM)に指定されていたアチェでは、約6000人の女性が、軍によって夫を殺されました。NINDJAは、協力関係にある北アチェ県のForja DOM(軍事作戦地域被害者寡婦フォーラム)を通じ、父親を殺された子どもたちに奨学金を出しています。
◇対象となる村◇
クタ・マクムル郡アル・ランベ村、グハ・ウレェ村、クルン・スノン村、プロ・イボ村、ニサム郡、西バクティア郡マタン・シジュック村、パヤ・バコン郡アル・ロッ村
◇奨学金の額(月額)◇
小学生 10,000ルピア 中学生 15,000ルピア 高校生 20,000ルピア(2010年2月現在、1円=約100ルピア)

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■ ピディ・ジャヤ地震被災者支援
 2016年12月7日、ピディ・ジャヤ県でM6.5の地震が発生しました。8日昼までに、死者102人、重軽傷700人、避難3276人と報じられています。NINDJAは、長年アチェで活動してきた経験を活かし、草の根の支援を開始しました。

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投稿者: NINDJA 投稿日時: 2016-12-13 0:44:00 (204 ヒット)

 12月12日、Jari Acehと名古屋学院大学からビルン県アルムスリム大学に留学中の学生2人は、ピディ・ジャヤ地震による避難者に対し、おむつ、ベビーウェア(上下、靴下、手袋)、ミルク、ユーカリ油、ベビーパウダー、生理用品、女性用下着、石鹸、歯ブラシ、歯磨き粉、ビスケットなど、女性や赤ん坊のための支援(計1127万4000ルピア)を届けました。支援物資は、被災者1人ずつ渡せるよう袋に詰め、ムルドゥ郡トゥピン・プラホ村で6袋、ポロ村で3袋、トゥリガデン郡ムチャット・パンワ村で29袋、メ・パンワ村で13袋配りました。
 ムルドゥ郡ポロ村(140世帯570人、男性230人、女性340人)は、8日の時点では、訪れられなかった被災地です。この村では、家屋約10軒が全壊、妊娠8カ月だった女性が瓦礫に埋められ死亡しました。パニック状態の住民の多くは家の前に避難していましたが、9日には何カ所かに避難し、炊き出しをはじめたということでした。村は国道メダン=バンダ・アチェ道路から離れていませんが、コメが数袋、飲料水が3箱、卵が3箱、そのほかの支援も限られたものしかありませんでした。可能なら再度支援したいと考えています。
 ポロ村の被災者からは、パンテ・ラジャ郡ロッ・プウク村の被害も深刻だと聞きました。161世帯が住む村では、家屋142軒のうち21軒しか残っていないそうです。トゥリンガデン郡タンポイ村も、国道から遠く、道路の破損もひどいため、支援物資が届きづらいようなので、この2カ村についても支援が必要です。

(報告:ヌルジュバ)


投稿者: NINDJA 投稿日時: 2016-12-11 21:12:31 (242 ヒット)

12月8日の報告を受け、Jari AcehとNINDJAは緊急支援の第一弾として、国道メダン=バンダ・アチェ道路から離れ、支援が届きづらい3カ村に、とくに女性と乳児向けの支援物資を届けることを決定しました。

1. ムルドゥ郡トゥピン・プラホ村
 12月8日時点では、村の端に数世帯だけが過ごせる小さな避難所がありますが、被災者の支援はまったくありませんでした。炊き出しもなく、村から2.2キロ離れた避難所までコメをとりにいかなくてはならない状況です。

2. トゥリンガデン郡ダヤ・パンワ村
 12月8日時点では、郡道沿いの避難所に、政府からの援助は届いていませんでした。のため、道路を通行する人からの基本物資の支援に依存している状況です。被災者は壁もない集会施設で寝ており、多くの女性や子どもが風邪を引いていました。

3. トゥリンガデン郡ムチャット・パンワ村
 家屋約10軒が全壊したほか、家屋2軒が倒壊し、4人の死者が出ました。村の集会施設に避難した住民は、テントにゴザを敷いて寝ています。妊娠中の女性、乳幼児の数が多いですが、12月8日の時点では政府の支援はまだ入っていませんでした。

この3カ村に対し、12月12日、以下の物資を届けます。
・おむつ
・ベビーウェア、靴下、下着、手袋
・ユーカリ油
・ベビーパウダー
・ミルク
・生理用品
・石鹸
・歯ブラシ、歯磨き粉
・ビスケットなど


投稿者: NINDJA 投稿日時: 2016-12-9 8:20:00 (270 ヒット)

12月8日、パートナー団体のJari Acehのヌルジュバと、名古屋学院大学からビルン県アルムスリム大学に留学している学生2人が、ピディ・ジャヤ県の地震被災地を訪れ、状況と被災者のニーズの確認をおこないました。以下、Jari Acehからの報告です。

1. バンダル・ドゥア郡クデ・ウレェ・グレェの避難所
 バンダル・ドゥア(Bandar Dua)郡では、約45カ村の被害がひどいが、すでに避難所で登録されているのは、クデ・ウレェ・グレ(Keude Ulee Glee)、ムコウ・クタン(Meukou Kuthang)、ムコウ・ダヤ(Meukou Dayah)、ルン・トゥンゴ(Lueng Teungoh)村で、ほかの村のデータはまだない。被災者たちは、ここでは泊まらず、共同の台所(炊き出し)もない。家の壁にひびが入っただけで、まだ家をつかえる被災者たちは、それぞれの家の庭で過ごしている。いっぽうで家が倒壊した被災者たちは、親戚や近所の家に避難している。
 この避難所は、クデ・ウレェ・グレェ小学校校庭にあり、国道メダン=バンダ・アチェ道路に面しているため、保健局からの医療支援や、基本物資、飲料水などの物資は届きはじめている。これらの支援物資は、各村の被災者に直接届けられる。しかし、子どもや女性への支援はまだない。赤ん坊のほ乳瓶、おむつ、ミルク、離乳食などはまったくなく、飲料水も不足している。

2. ムラ・ドゥア郡ムナサ・ビ村アル・イスティカマモスクの避難所
 ムラ・ドゥア(Meurah Dua)郡ムナサ・ビ(Meunasah Bie)村アル・イスティカマ(Al-Istiqamah)モスクの避難所には、ルン・ビンバ(Lueng Bimba)、ブアンガン(Buangan)、パンテ・ブルネ(Pante Beurene)、ダヤ・クルット(Dayah Kreut)、ブリンゲン(Beuringen)、トゥピン・プカット(Teupin Pukat)の6カ村が避難している。住民の多くは、地震への恐怖やトラウマのために避難してきた。かれらの村は、国道の北側、つまり海のほうにあり、再び地震が起き、津波が発生することを恐れているからだ。いまも余震はつづいている。午前中には、状況をみるため、村に戻り、家のがれきを片づけ、まだつかえるものを集める被災者もいるが、昼食時には避難所に戻り、夜は避難所で過ごすという。
 まだ委員会が結成されていないため、多くのデータを得ることはできなかったが、テントにいる女性たちと直接話をした。医療支援はすでに避難所にあり、飲料水も届きはじめている。倉庫もみせてもらったが、基本物資は現時点では十分なようだった。しかし、ここでも女性や子どものための支援(おむつ、赤ん坊の服、ユーカリ油、蚊帳、生理用品など)は足りていなかった。

3. ムルドゥ郡の商店街
 ムルドゥ(Meureudu)郡の商店街では、店舗の多くが倒壊し、捜索・救出活動がつづけられていた。ほとんどの店舗では、閉じ込められた人びとが救出されたが、3階建ての時計屋ではちょうど花婿をバンダ・アチェに送るため、家族が集まっており、全員が閉じ込められてしまった(そのため、その数についても28人、38人と錯綜していた)。家族の多くは1階で寝ており、店舗が地中に崩れ落ちてしまったため、1人も発見されていない。2階に寝ていた家族はみな、遺体で発見された。

4. ムルドゥ郡トゥピン・プラホ村
 ムルドゥ郡トゥピン・プラホ(Teupin Peuraho)村の状況も深刻だった。女性1人、娘2人、孫1人が住んでいた伝統的なアチェ家屋(高床式)は全壊し、女性は鼻を負傷し、鼻血を出した。女性はすでに病院に運ばれ、帰宅を許されていた。娘2人と孫1人は、家から降りて逃げる際、顔、腕、背中を負傷した。
 夫婦と子ども2人(2歳半と生後52日)の住む小さな家も全壊したが、避難所から離れているため、ほか2世帯とともに家の前に避難していた。夜には、数世帯だけ過ごせる小さな避難所が建てられた村の端まで行く。被災者への支援はまったくなかった。この避難所では炊き出しもなく、村から2.2キロ離れたブラチャン交差点(メダン=バンダ・アチェ道路)の避難所まで、コメをとりにいかなくてはならない。生後52日の赤ん坊の状況は憂慮すべきもので、屋外のゆりかごで寝ており、母親もトラウマに加えて栄養失調気味にみえた。

5. トゥリンガデン郡ダヤ・パンワ村
 トゥリンガデン(Trienggadeng)郡ダヤ・パンワ(Dayah Pangwa)村バレ・アラ(Bale Ara)集落では、家屋の倒壊はそれほどひどくなく、死者も出なかったが、海に近いことに怯えた100世帯ほどが、ムナサ(アチェの伝統的な高床式の集会施設)に避難しており、すでに炊き出しをはじめていた。人びとの生業は、稲作、養殖、漁業などである。村の人口は約500世帯と多く、避難所はこのムナサ含めて2カ所ある。しかし被災者がパニック状態のため、まだデータ収集はされていなかった。
 この村は、メダン=バンダ・アチェ道路から離れているため、基本物資の支援は少ない。ただ郡道沿いに避難しているため、道路を通る人が、コメ、卵、インスタントラーメン、飲料水などを支援している。政府の援助は届いていない。インドネシア赤十字が、飲料水を貯めるための水槽を設置していた。ムナサは、裏は水田、表は養殖池に囲まれており、夜になると寒い。被災者は、壁もないところで、ムナサのセメント床の上に寝なくてはならず、多くの女性や子どもが風邪を引いていた。女性たちは、蚊帳、赤ん坊のほ乳瓶、離乳食、ミルク、生理用品、石鹸、歯ブラシなどを必要としていた。
 わたしたちが村に到着したとき、男性たちの一部は、夜ご飯のための白米を炊いており、女性たちは訪れた人びとに出すお茶とパンを準備していた。女性たちはまた、夜ご飯のおかずのために、野菜を洗うのに忙しそうだった。

6. トゥリンガデン郡ムチャット・パンワ村
 ムチャット・パンワ(Meucat Pangwa)村の人口は、約180世帯、約565人(女性300人、男性262人)である。被害も少なくなく、家屋約10軒が全壊したほか、家屋2軒が倒壊し4人の死者が出た。そのうちの1軒では、世帯主のリジャク・アブディさんと娘ニア・ラマダニさん(4歳半)が死亡、妻のユニタサリさんは、腕の腫れがひどく、バンダ・アチェの病院へ運ばれている。もう1軒では、65歳ぐらいの祖母、2歳半の孫スルタンさんが死亡した。スルタンさんの両親は重傷で、病院で治療を受けていた。住民によれば、この家族はコンクリのがれきで生き埋めになり、助けを求めていたという。地震4時間後の9時(インドネシア西部時間)にようやく重機が来たが、小さなもので、家族を救出することはできなかった。15時に大きな重機が来て、2人の死亡が確認された。2人はその晩に埋葬され、生き延びた2人は病院に運ばれた。
 村の人びとは、ムナサに避難している。健康状態が悪い住民は、村役場で寝ることが許されているが、多くは建物のなかに入ることを恐れ、地面にゴザが敷かれた状態でしかないが、テントのなかで寝ることを選択している。妊娠中の女性が多く、約10人いるうち1人は、出産を間近に控えている。子どもの数も多く、0〜1歳の子どもは12人(男子5人、女子7人)、1〜2歳の子どもは17人(男子7人、女子10人)、2〜5歳の子どもが41人(男子18人、女子23人)だった。基本物資については、北スマトラ州メダンの金持ちが寄付を募り、直接村まで運んできたが、政府の支援はまだ入っていなかった。炊き出しは地震当日からおこなわれている。

7. トゥリンガデン郡クタ・パンワ村
 クタ・パンワ(Kuta Pangwa)村では、16人(大人8人、子ども8人/男性2人、女性14人)が、倒壊した家屋で生き埋めになり、救出が遅れたために死亡した。クバ・モスクも倒壊したしたが、モスクのなかで礼拝する人がたまたまいなかったため、死者は出なかったという。モスクの裏には高校同等のプサントレン(イスラーム寄宿学校)があり、生徒たちがこのモスクで礼拝する。そのため、このモスクは礼拝の時間には多くの人が集まっている。しかし、地震のときは、プサントレンの先生が寝坊し、生徒を起こす鐘を鳴らすのが遅れたため、生徒たちはまだモスクに行っていなかった。
 村では、まだ地震のトラウマから抜けられていない妊娠8カ月の女性と話ができた。地震で彼女の家は壊れなかったが、隣の家が彼女の家に倒れてきたため、彼女の家も倒れてしまったという。地震直後、彼女は夫、長子とともに家を出て、抱き合いながら座っていた。いまも怖くて、家に入ることはできないため、やはり倒壊したモスクの庭に避難している。村の被災者はムナサの庭に避難しているが、ムナサから遠い6世帯のみが、このモスクの庭に避難し、ゴザを敷いたテントで寝ていた。

8. トゥリンガデン郡メ・パンワ村
 メ・パンワ(Me Pangwa)村は、メダン=バンダ・アチェ道路沿いにあり、人口は240世帯、880人である。死者は2人で、どちらも5歳以下のきょうだいだった。やはり重機の到着が遅れ、住民たちが家屋の瓦礫を撤去して救出された両親は重傷である。
 村の住民は、メダン=バンダ・アチェ道路沿いのムナサの庭に避難し、基本物資の支援は2日間分はあった。絶対的に不足しているのは清潔な水と飲料水、女性や赤ん坊のための支援である。出産したばかりの女性たちは、おむつ、赤ん坊の服、ミルク、ユーカリ油、赤ん坊を風から守る蚊帳を必要としていた。出産後28日しかたっていない女性は、まだ青ざめ弱っているようにみえた。出産間もない女性も多いが、妊娠中の女性も13人いた。

9. トゥリンガデン郡メスジッド村
 すでにマグリブ(日没の礼拝)近く、村助役と話をするだけで終わった。助役によると、死者は2人(どちらも5歳以下の子ども)、80%の家屋が全・半壊したというが、まだはっきりしたデータはなかった。村のモスクも倒壊し、地中に埋まったほか、亀裂が入っていた。

(報告:ヌルジュバ)


投稿者: NINDJA 投稿日時: 2016-12-8 15:15:09 (197 ヒット)

 2016年12月7日7時ごろ、アチェ州ピディ・ジャヤ県で発生したM6.5の地震による被害は、死者102人、重軽傷700人、避難3276人(国家災害対策庁発表、8日昼時点)と報じられています。同庁は、ピディ・ジャヤ県、ピディ県、ビルン県で14日間(20日まで)緊急支援をおこなうことを決定しました。現在も県庁所在地であるムルドゥ(Meureudeu)、ウレェ・グレェ(Ulee Glee)を中心に、国軍・警察による捜索活動がつづけられています。
 NINDJAは、十数年にわたりアチェの紛争・災害被災者を支援してきた経験を活かし、緊急・復興段階での支援をおこなうことにしました。8日、パートナー団体であるJari Acehが現場に入り、状況と被災者のニーズの確認をおこなっており、そのうえでNINDJAらしい草の根の支援を実施する予定です。
 詳細は逐次、このホームページやTwitterなどで報告させていただきますが、みなさまからもご支援を賜りたくお願いいたします。

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投稿者: NINDJA 投稿日時: 2013-8-23 23:06:00 (965 ヒット)

■ マタン・スリメン集落とは
 マラッカ海峡沿いの北アチェ県サムドゥラ郡クタ・クルン村マタン・スリメン集落は、2004年12月26日に起きたスマトラ沖地震・津波に襲われた地域です。家は1軒も残らず、女性15人、子ども11人が死亡しました。女性たちは、子どもを探して逃げ遅れたり、またヤシの木に登ることができなかったりして、波に呑まれていったのでした。
 ここまでは、津波被災地となったどの村でも見られた光景です。違っていたのは、この集落が、ハンセン病患者・回復者のコロニーだったことです。逃げることを諦めた重度のハンセン病患者6人は、コーランを唱えながら、最期のときを迎えたといいます。
 生き残った28世帯89人は、同じサムドゥラ郡の津波被災者たちとともに、グドン(郡役場所在地)へと避難しました。グドンでは、大きなテントが並び、それぞれ村ごとに共同生活が営まれていました。幹線道路沿いに位置することから援助物資も入りやすく、テントは一列、しかも裏が水田で風通しも悪くありません。わたしが訪れた北アチェ県の避難民キャンプのなかで、もっとも人びとの表情の明るいところでした。
 しかし、集落の人びとにとっては、そうではありませんでした。「カンプン・レプラ(ハンセン病の集落)」に対して、ほかの被災者は冷たく、集落の人びとは共同の台所への立ち入りを禁止されました。集落の人びとがありつけるのは、骨だけになった魚、実のなくなった汁だったそうです。集落の人びとは、差別に耐えられなくなり、約2カ月半後、観光局所有の掘っ立て小屋に移りました。女性たちは小屋に、男性たちは小屋の外にビニールシートで天井だけをつくり、避難生活をつづけました。
 サムドゥラ郡の被災者が、政府の建てた長屋式仮設住宅に入ったり、自分で元の村に建て直した家に戻ったりしているころ、集落の人びとは行き場もなく、この小屋で暮らしていました。人びとは、せめて海から500m離れたところに住みたいと希望していたが、彼らを受け入れる場はなく、けっきょく元の集落に戻っていきました。

■ 子どもたちへの支援
 「隔離された」マタン・スリメン集落の人びとが職を得ることは難しく、多くはハンセン病患者への政府(社会局)からの援助に頼ったり、ロスマウェ市に物乞いに行ったりして、生計を立てています。NINDJAは、津波被災者への支援活動を終了したのちも、このマタン・スリメン集落との交流を深めてきました。とくに集落の子どものために、バライ・プンガジアン(コーラン朗読の練習をする場)や遊び場(2007年8月15日の報告)を建設したりしています。
 2013年2月に集落を訪れた際、女性たちから子どもの制服を支援して欲しいという要請を受けました。カンパや、2013年9月に実施するツアー収益などから、ようやく制服を購入する資金のめどがたったため、8月23日、北スマトラ州メダンで買い付けを実施しました。

【子どもの数】
小学生:男9人、女4人
中学生:男2人、女2人
高校生:男2人、女2人 計21人
【支出】
制服:200万1000ルピア
靴・靴下:73万5000ルピア 計274万6000ルピア

(報告:佐伯奈津子)


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