24日、スヌドン郡マタン・ラダ村のバライ・プンガジアン(コーラン詠みの練習場)が完成、本日、そのプシジュッ(お清めの儀式)がおこなわれました。ここで「先生」をするトゥンク・イマム・アブドゥラは、なんと日本軍の兵補だったそうです。「日本の歌も歌える」と笑うので、「見よ東海の…」がはじまるかと思ってしまいました。
思わず、数年前、パプアの浜辺で歓迎の儀式として、おじいちゃんたちが「君が代」と「見よ東海の…」と歌ってくれたことを思い出してしまいました。本来ならヨスファン(人びとが踊りながら歌う)が流れる明るく開放的なパプアの海辺の光景での「君が代」のメロディは、はっきり言ってミスマッチ。シュールでした。
閑話休題。プシジュッでは、トゥンク・イマムがお祈りのことばを唱えながら、炊いたもち米とヤシの実を削ったものを手でこね、準備を整えます。コメと籾を四方に撒き、つづいて花と葉を水にひたし、その水を撒きます。さらに、もち米とヤシを柱にこすりつけます。これは、学問が身につくようにとの願いを込めたものだそうです。 その後、みんなで残りのもち米とヤシを食べながら、おしゃべりをしました。マタン・ラダ村では、昨年夏、女性たちに塩づくりの道具を支援しました。男性たちの生計の場は、養殖池か水田で、津波で破壊されました。6月ごろ、津波後はじめての田植えをする予定だそうです。灌漑施設がないため、田植えの時期は雨次第となります。4カ月で津波後初の収穫を迎えます。もし田植えか、収穫の時期に、アチェにいることができたら、わたしも必ず参加すると宣言してきました。
(報告:佐伯奈津子)
2006年3月14日の報告で書いたマタン・スリメン集落のカマットさんの義足が完成しました。
カマットさんは、アチェ語が話せず、インドネシア語もバタックなまりです。てっきり北スマトラ州メダン出身かと思っていたら、実は中アチェ県出身のガヨ人でした。お連れ合いは、北アチェ県でやはり津波に被災したバユ郡ランチョッ村の出身。メダンのハンセン病療養施設(?)で出会い、すぐに恋に落ち、結婚したそうです。2年ほど前、ハンセン・コロニーのマタン・スリメン集落に移り、そして津波に遭いました。
津波で義足を失い、その後メダン在住の人に新しい義足を支援されたのですが、長すぎてつかえないとのこと。義足の修理の支援をすることにしました。 15日、カマットさんとお連れ合いを迎えに行き、義足をつくっているおじさんの住むタナ・パシール郡マタン・トゥノン村(ここも軽微ながら津波被災村)に行きました。マタン・スリメン集落同様ハンセン・コロニーのタナ・パシール郡西クアラ・クルト村のマルズキさんの義足も、彼につくってもらいました。義足をつくっているおじさんも、生まれたときから片足のひざ下がなく、やはり義足をしていました。
カマットさんが義足を装着してみると、たしかに長すぎます。まさか義足をつけた足を曲げたまま、歩けるわけがありません。マルズキさんの義足は、なんら問題なく、マルズキさんはどこへでも自転車に乗って出かけているのに、カマットさんのはなぜこんなことに? 話を聞くと、カマットさん本人がマタン・トゥノン村まで来たのではなく、支援者が足の長さを測って、義足づくりのおじさんに伝えただけだったらしいのです。
義足の上のほうを切っても、下のほうを切っても、太さが合わなくなってしまうため、けっきょく、新たに義足をつくりなおしてもらうことになったのでした。
そして本日、いよいよ義足ができたとの連絡を受け、再びカマットさんとマタン・トゥノンに出かけることになりました。わたしは残念ながら別件で行くことができなかったのですが、写真を見る限り、カマットさん、かなりうれしそうです。ポーズも決まっています。
ただ、ひざに大きな傷があるため、義足があたらないようガーゼをあてなくてはなりません(おじさんは、それも考えて、少し口を広めに義足をつくってくれたとか)。さらに、ずっとひざを曲げる生活がつづいていたため、義足をつけて歩行訓練が必要なようです。でも、マタン・スリメン集落で見た、いつも黙々と作業をしているカマットさんなら、きっと障害を乗り越えていくのだろうと思います。
(報告:佐伯奈津子)
14日は朝から北アチェ県最東のパントン・ラブに建築資材の買い付けに行きました。スヌドン郡マタン・ラダ村のバライ・プンガジアン用の資材を買い付け、村の人びとに運んでもらったあと、東アチェ県シンパン・ウリム郡クアラ村の仮設学校建設用の木材を買い付けに、製材所へ向かいました。
バンダ・アチェの住宅建設用資材も、ここから運ばれるそうで、とにかく製材所は繁盛しています。アチェの住宅建設のため170万tの木材が必要だといわれています。インドネシア環境フォーラム(WALHI)は、アチェでの森林事業権(HPH)と産業造林事業権(HPH-TI)の申請者の多くが、環境規則に違反し、自身の義務を果たそうとしていないと、違法伐採の危険性を指摘しています。住宅建設で木材が必要だという現実と同時に、このチャンスを利用して違法伐採する企業の存在もまた現実であり、どこが妥協点になりうるのか考えてしまいます。
さて木材がすべてそろい、運ばれてくるのを、クアラ村で待っているあいだ、村の人びととさまざまな話をしました。GAMが海外に逃亡する際の基地とみなされたクアラ村での軍事作戦は、想像以上に深刻だったようです。 03年5月19日に軍事戒厳令が布かれて3日後、川を小舟で上っていたある家族が、「武装集団」に撃たれました。当時4歳半だった子ども、母親に弾があたりました。2人とも命はとりとめましたが、父親は2人の治療のために1500万ルピア払わなくてはなりませんでした。家も牛もヤギも、財産すべて売ったといいます。
2人が治療を受けているとき、国軍兵士が、発砲者についての情報をとりにきました。この国軍兵士は、父親に銃口を向け、「お前はGAMだろう」と言ったうえで、「誰が発砲したのか」と尋ねました。父親は家族の無事を考えて、「GAMでも国軍でもなかった」と答えるしかありませんでした。本当は、200mしか離れていなかったし、武装集団の船にはインドネシア国旗が掲げられていたため明らかだったのですが。
父親は言います。「国軍兵士がGAMを捕まえたかったら、実際は簡単だ。住民と交流し、人心をつかめばいい。武器を突きつけるなんて、やりかたとしてはもっともバカげている」と。そして、クアラ村での軍事作戦について、けっして忘れることができないとも。
和平合意が結ばれたといっても、本当につづくのかどうか、以前のような状況に再びならないか、人びとはまだ不安を抱えています。
(報告:佐伯奈津子)
早く女性の生計手段支援をおこないたいのですが、この間、建設関係が多くなっています。ひとつひとつのプロジェクトの額が大きくないこと、村全体の利益につながること、さらに支援する機関・NGOがないことから、わたしたちが支援するしかないのだろうと思います。しかし、これまで一人一人の希望に沿って、サウォッ・サベェ、サウォッ・シラン、ブベェ、ジャラ、アンベ…と細かく支援をしてきただけに、いささか違和感があります。
マタン・スリメン集落には、バライ・デサ(公会堂)もムナサ(祈祷所、集会施設)もバライ・プンガジアン(コーラン詠みの練習をする施設)もありません。つまり人びとが集まる場がないのです。以前からバライ・プンガジアン建設の要望があり、道路修復も無事に終了したため、やっと建築資材の搬入などを進めることになりました。 13日、集落で話し合いをし、再度バライ・プンガジアンのイメージを確認したうえで、人びとと資材の買い付けに出かけました。みんなで、どの木材が適当か、一緒に決めていきます。(水)か(木)には、必要な物資がそろい、集落に運ばれるようです。
ところで、マタン・スリメン集落は、ハンセン病患者コロニーになっている地域です。なかには北スマトラ州メダンから移ってきた男性もいます。この男性、一度義足をつくったのですが、足と合わなかったそうです。(水)に車で迎えに来て、義足をつくる人のところに連れて行くことになりました。今度こそ、うまくいくといいのですが…。